【125社めぐり】 摂社 久具都比賣神社
内宮 摂社 久具都比賣神社 (くぐつひめじんじゃ)
御祭神 久具都比女命 (くぐつひめのみこと)
久具都比古命 (くぐつひこのみこと)
御前神 (みまえのかみ)
当ブログで、倭姫について考察した際に
一度ご紹介した久具都比売神社ではありますが、
倭姫考察⑤倭姫伝説の地へ行ってみた~久具都姫神社編 - 伊勢河崎ときどき古民家
もう一度、今度は125社めぐりの視点から見てみたいと思います。
久具都姫神社は125社の中でもメジャーな部類に入ると思います。
そして、なんと!表通りに看板があります。
これは有り難いことです。
写真奥が久具都比売の森です。
車を止められるところからは、少し歩いて目指します。
素晴らしく綺麗に積まれた神社の石垣。
ここを右手を進むと川へ出る道が。
とても魅力的な雰囲気にわくわくします。
宮川のほとりに建つここ久具都比売神社の裏手には、渡し場があるのです。
そちらは後ほど見るとしまして、まずは神社へ。
広い入口が印象的です。
【125社めぐり】 摂社 田乃家神社 ・ 田乃家御前神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
可愛い手水鉢や、広々とした参道は特にさっぱりとした感じで、
大通りの看板といい、地域の信仰の深さを感じます。
そう思っていところやはり、地域の風習として「御祭まいり」(ごさいまいり)という
旧暦の神嘗祭執行日に多くの住民が参拝する行事があるといいます。
訪れた頃は社殿の立替からかなり経っていたと思われ、
苔むした鳥居や屋根からは何とも言えない風情を感じます。
建替えたばかりの木が白々と輝くばかりの社殿も良いですが、
個人的にはこの年月が経った姿が愛おしく思えてしまいます。
『皇大神宮儀式帳』では、神社が破壊されたときに正税で建て替えると規定しますが、
『大神宮式』は宮司が修理すると規定していたようです。
現在は摂社の建替えは、老朽化してきた頃に準次に建替えられていますね。
正式にどういう基準が設けられているのかは、謎です。
(部分修理なども必要に応じてされているようですが詳細は不明です。)
『皇大神宮儀式帳』には「正殿三宇」、3つの社殿が建ち並んでいたとあります。
倭姫が定めた社とされ、
「久具〔神〕社一処。称 大水上神御子。久々都比女命。又久々都比古命。形石坐。」
と記されていますが、3柱目の神様が誰であるかは不明です。
久具都比古命と久具都比女命は一之瀬川を下ってきた倭姫命を出迎え、
その地を「久求小野」であると述べたと言われ、
故に倭姫命は「久求社」を定めたとされています。
(『倭姫命世記』による)
神宮会館HPによると
「祭神はこの土地の守り神として、水の神・五穀の神三座、
となっています。
この御前神とは?
『大神宮儀式解』では3柱目の神は久具都比女命と久具都比古命の前社の神(=御前神)と考証し、
『神三郡神社参詣記』は「山神」としている、と久具都比賣神社 - Wikipediaには見られます。
私は「御前の神」称する神は、
主祭神のお世話やボディーガードをする執事のような神で
神宮における外宮の豊受姫もそうではないかと私は思うのです。
豊受姫は内宮のアマテラス大神を御世話する神です。
それが、宇加乃御魂神や稲荷明神と習合していき、
多くの神社の境内にお稲荷さんが鎮座している理由でもある推察しています。
ですので、この御前神も久具都比売&比古の執事の神ではないでしょうか?
ですから、記載がないのです。
久具都比売&比古は大水上神の子とされています。
園相、鴨、宇治山田、津長大水、楢原、坂手と摂社だけでも7社あります。
そしていかにも大水上神を祀っていそうな大水神社では大山罪(大山津見)神を祀っているのです。
ここから上記の「山の神」説は生まれているような気もします。
【125社めぐり】 摂社 宇治山田神社 ・ 末社 那自賣神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
改めて考えると、上流から水が流れる様子を守護する神で
もっと広い意味での「川の神」であるのかもしれません。
この3つあった社は、
中世に摂社末社が荒廃した後、江戸初期に復興されたご多聞にもれず、
その復興の際に1つの社にされたそうです。
この久具都神社の名物ともなっている大楠(写真↓)はその様子を見ていたことだと思います。
そもそもなのですが、
この「くぐ」の意味が不明とされます。
久具・久々・久求・久典など表記も色々です。
上述しましたが、『式内社調査報告にも
「『倭延命世記』に、倭延命が天照大御神を戴奉りて幸行し、
この年飯野より伊蘇、猍田(現玉城町)、坂手(同上)を経て、
現在の瀧原宮より宮川を遡り行く時、久求の地に到り、
久求都彦の白す久求小野に久求社を定めたのが当社のことである。」
とあります。(久具都比売神社)
以前「くぐつ」とは「傀儡」か?という妄想を語りましたが、
この記述に基づいて考察すると
倭姫が長い旅の中「久しく求めた津(川の渡し)」であったのでは?
とも考えられます。
もしくは「久しく求めた地(都)」だったのでしょうか?
また、「火具土(かぐつち)神」のように「久」に意味が込められているのならば
「久」は「長い」「古い」の意味もありますから、
この2柱の神が古くからこの地と川を守護していたことを指すのかもしれません。
さて、神社を出て今度は先ほどの道を右に進み川に出て
この久具にある渡しを見てみましょう。
地元の先生やツーリストさんに引率してもらったので実際に見ることが出来たのですが、
写真右上、川にウッドデッキのように板が出ているのがわかりますか?
これが、久具の渡し場の跡です。
三重県内で一番最近まで使われていた渡し舟の渡し場が、ここなのです。
確には「上久具の渡し」と呼ばれ、
宮川両岸の上久具と棚橋を結び、渡し船が運航されていたのだそうです。
1901年(明治34年)に子供達の通学のために開通し、
1994年(平成6年)久具都比売橋が架橋されるまでの約90年間
この渡しは利用されたとのことです。
ですが、神宮会館HPには
「社地の北側と西側は宮川の清流にのぞみ、
往古には渡し場があり、そこを経て参拝がされた。」
とありますので、倭姫も、そして昔の参拝客も使った渡し場が古くからあったのだと思います。
宮川は増水が激しいですので、渡し場に出来る場所も限られていたのでは?と考えられますね。
(この久具の渡しも増水時は水没するのは免れないでしょうから、他よりはマシだったというレベルにおいて…)
ラストに
興味深い記述を見つけましたのでご紹介したいと思います。
「式内社調査報告」に
「社殿の裏手、宮川に接して大きな岩がいくつもある。
村の古老(上久具渡しの船頭・平成元年にて七年目)の話では、
その中でもひとつ、大きく立つてゐる岩を「オヒメイワ」と呼んでゐる。
そしてその岩の下には湧水があり、何かある時には井戸としてここより水を汲んださうである。
又、岩と社殿の間に小さな池があり、ここでクグツヒメが行水したのであらうといふ事を話してゐた。」
とあるそうです。(久々都比売神社)
やはり以前の記事で指摘したように、久具都比売は倭姫に擬えている感を抱きます。
そもそも、瀧原宮のように出迎えたのは「比古」だけだったようなのに(上記『倭姫命世記』参考)
途中から比売が出てきて、社の名前にも後々「比売」がついた印象です。
(『皇大神宮儀式帳』には「久具社」とあります)
折しもこちらに参拝する前に倭姫伝説の残る「乙女岩」を見てきたところでしたので
余計にそう感じてしまうものがあります。
そして、こちらの御神体は「石」ですね。
湧き水や井戸の話は外宮の上御井神社と下御井神社も彷彿とさせます。
御前神についての自説につなげたくなってしまいます。
(2016.9.3.参拝)