倭姫考察⑤倭姫伝説の地へ行ってみた~久具都姫神社編
倭姫は旅の中なのか、もしくは斎宮として着任中なのか、判然としないのですが
いくつもの神社を定めています。
「皇大神宮儀式帳」に詳しく記載されていますが、
そのほとんどが、神宮の摂社・末社です。
ここ久具都姫神社もそのひとつです。
宮川の流れのすぐそばに建つこの神社は、
内宮の21番目の摂社に位置づけされています(全27社中)。
神宮の摂社末社は中世に荒廃して、行方知れずになってしまい
後世に比推地に鎮座し直すこともあるのですが、
この久具都姫神社も荒れてしまっていたのを江戸時代に時の大宮司が遷座したそうです。
ただこの鎮座する地は古来から同じであると考えられています。
久具都姫神社はその名の通り、久具都姫命をお祀りする神社です。
「皇大神宮儀式帳」には
久具〔神〕社一処。称 大水上神御子。久々都比女命。
と記載され、「倭姫命世記」には「久求社」とあることから
元は「くぐ」神社であったようです。
「倭姫命世記」や地元の伝承では、
倭姫が飯野から伊蘇、猍田(現玉城町)、坂手(同上)を経て、 現在の瀧原宮から宮川を遡った時
この久求で久具都比古命に出迎えられ、久具都比女命がその地を「久求小野」であると述べて
倭姫は「久求社」を定めた
と言われています。
現在は社殿は1つですが(隣は遷宮の際の遷座地)、
古代は3つあったと言われているそうで、
御祭神は今も三柱で
久具都姫の他に、久具都比古命、大水上神御子が祀られています。
この地で水の神・稲作の神として信仰されてきた神であるとされています。
神宮の摂社末社にお詳しい方なら「大水神社ってあったよね?」とお気付きかと思います。
内宮摂社17位の大水神社は山の神・大山祇御祖命が祀られています。
大水神社についてはまた後日摂社末社の考察で詳しく触れることにしまして、
この久具都姫神社の東、宮川の川岸には「上久具の渡し」という渡し場があり、
向こう岸の棚橋との間を渡し船が往来していました。
1994年に久具都姫橋がかけられ、明治から90年続いた渡し舟の往来はなくなりましたが
今もその渡し場の跡があります。
大水神社は内宮の宇治橋からほど近い場所にあり、
すぐそばにはその宇治橋を護る饗土橋姫神社があります。
(この神社についてもまた後日詳しく…)
どちらもこの橋―川という境界を護る神なのではないでしょうか。
久具と呼ばれたこの地が「久具都」となったのも、
昔から「久具の津」=川港だったからではないでしょうか?
宮川は水量が多く、昔からよく氾濫を起すことでも有名です。
この上久具の渡しは、古来から渡りやすい津があったからこの場所にされたのでは?
そして津という往来を護っていたの久具津比古&久具津姫だったのでは?と思うのです。
そしてこの「くぐつひめ」という言葉の音がひっかかります。
元々「くぐ」であったのに「くぐつ」にされた理由は推察した通りだとは思うのですが、
「くぐつ」=「傀儡」という文字が結びついて、あまり良い感じは受けません。
「くぐのつ」でも良かったはずなのにそれを敢えて「くぐつ」と呼んだのには
まだ他に理由があるのでは?と邪推してしまうのです。
くぐつ―傀儡とは、現在では操り人形の意味合いが強いですが、
元々は、歌などに合わせて舞わせる木製の操り人形(木偶)を指したようです。
平安時代以降は、木偶を操ったりして各地を漂泊した芸人も意味するようになり、
その一部は寺社に仕え、布教に従事したとも言われ、
傀儡回し・傀儡師とも呼ばれるようになったといいます。
(転じて白拍子のように春を売る遊び女にもなっていきます)
これは倭姫を指す隠語なのかもしれないですし、
久具都姫が傀儡になってしまったこと=この地をアマテラス大神に捧げたことの暗喩かもしれない
と思ってしまうのは、深読みのしすぎでしょうか?
そして、旅をして布教をするという、またもや御師の影がここにも…。
宮川の川のしらべがやわらかく響く境内には幹の周囲が7.8mもある楠木のご神木があります。
楠木には樹齢2000年や3000年のものが日本中にありますよね。
この御神木はもしかすると倭姫の来訪を見守っていたのかもしれませんね。
全ての謎をインタビュー出来たらいいのに…。
でも、謎は謎のままだから面白い、ということもありますね。
(*どこのご神木も大樹も木肌がとってもデリケートなのでお手を触れないようお願いいたします)