アシハラ考②
前回は、「アシハラ」という言葉から「葦原神」について考察をしてみました。
今回はご祭神としての観点から考察してみたいと思います。
葭原神社(あしはらじんじゃ)の御祭神は
佐佐津比古命(ささつひこのみこと)
宇加乃御玉御祖命(うかのみたまのみおやのみこと)
伊加利比賣命(いかりひめのみこと)
の三柱とされていることは、前々回の葭原神社の回にも述べさせていただきました。
それぞれ、川の神(港の神)、
市場や人の集まるところの神、
田の神で井戸の神…
と考えることができます。
【125社めぐり】内宮 末社 葭原神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
ここに神社の名前を冠した神は祀られていません。
それぞれの神を総合して「ここが昔葦原(湿地)であった」と神宮会館のHPには書かれています。
ところが「葦原神」をご祭神としている神宮摂末社が存在するのです。
それは外宮末社の大津神社です。
ここでは葦原神はその名の通りの河口・港の神だとされています。
ただし、大津神社の古来の建立地はわかっていません。
【125社めぐり】 外宮 末社 大津神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
もしかすると、宮川もしくは勢田川の河口(港)の神で、特に社は設けられずに
川そのものが祀られていたのかもしれません。
内宮の「取次の神」とされる滝祭神も古代は五十鈴川そのものを祀っていたとも考えられていますから…。
後になって、橋姫神社のような川港の神が出来たもの…と私は思います。
【125社めぐり】 所管社 饗土橋姫神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
勢田川と宮川の間に建つ外宮の界隈は古くは湿地であったそうです。
今も「吹上」などの地名にその名残がありますし、
現在の地図を見ていても勢田川と宮川を繋ぐ支流の小川がいくつかあったであろうことは想像できますね。
そうです、まさに「葦原」だったのです。
そして川と川の間に外宮と現・大津神社が鎮座していることも興味深いです。
このように改めて見てみると、外宮は川に挟まれていること、そしてその川の注ぐ海からも近いことがわかりますね。
外宮界隈に電車で来てしまうと、海を感じるよりは神宮の森や山に抱かれてる感じが強いのですが、
元々伊勢の国は海辺の国なのです。
昔は船での「舟参宮」もありましたし、徒歩での参宮も最後には宮川を渡りました。
(その渡しの名残が「桜の渡し」と「柳の渡し」で、ここが宿泊する御師との待ち合わせ場所でもありました)
古来の感覚に視点を切り替えると、伊勢は海と川と切っても切れない関係なのです。
そしてまた、川を境界のようにしている様子も地図からは見てとれます。
川は古来から異界と異界を隔てる境界であったことは前回もお話しましたが、
この伊勢の地はそのような古代の世界観とぴったり合致する土地なのです。
根の国が西方にあり、
「常世の波の打ち寄せる場所」とアマテラスが寿ぎした二見の浦が東にあります。
二見の興玉神社の境内には天の岩屋もあります。
(余談;当時には内宮宇治橋から日が昇りますね)
根の国は黄泉の国とされています。
そして根の国を通った先の紀伊国にはイザナギ・イザナミが坐し、「甦り」がキーワードです。
その中間に「葦原中つ国」があるのです。
もしかすると「葦原の中つ国」は「葦原中津国」で、
「つ」は助詞「の」ではなく、そのまま「津(港)」を指すのかもしれません。
そう考えて見てみると…
外宮の摂末社のほとんどは川の近くに坐し、
川や港の神との繋がりがとても深いのです。
上記は外宮の摂末社の位置です。
外宮は元々、伊勢の豪族・度会氏の支配する領域でした。
度会氏は海を占める海部氏(伊勢では磯部氏とも)と関わり合いが深かった…または同族であったとも考えられています。
ですので、海(天)、そしてその境界である川を守る神を祀っていたのではないでしょうか。
その信仰に大和の朝廷の要素が加わって現在の外宮に変化したのだと思います。
私は内宮は外宮よりも創始が新しいと思います。
なぜなら、上述の2D(平面)での世界観から突き抜け、内宮は3D(高さのある)世界観になっているのです。
海抜の低い、外宮界隈(山田)と比べて内宮界隈(宇治)は山の方にあります。
これは仏教やキリスト教に見られる「天(空)」「地上(現世)」「地下(黄泉)」の世界観に通じていると思いませんか?
仙人は山の上に住んでいる…とか、天国は空の上にある…といった宗教観です。
元々日本の古来の宗教観は2D(平面的)で、「あの世」や「神の国」は「海の向こう」と考えられてきたのだと思うのです。
これは島国独特の要素でしょう。
子供の頃、家族や知人が亡くなったことを「遠くに行った」「海の向こうに行った」と言われたことはありませんか?
これは日本人独特の感性ではないでしょうか?
もちろん「お空の上にいった」「お星さまになった」とも言われますが、これは万国共通のように思われます。
つまり、伊勢の外宮界隈は日本独特の世界観が確立した特別な土地とみなされ、
だからこそ皇祖伸であるアマテラスの鎮座地と定められたのではないでしょうか?
その際に度会氏の宮であり度会氏の神を祀った外宮は避けられ、
同じように川で隔てられた土地である五十鈴川の三角州に社が建てられたのだと思います。
(度会氏の神とアマテラスがイコールでは困りますからね)
同時に元々は度会氏の支配下の豪族であった荒木田氏がアマテラスを祀る担当…とされたのではないでしょうか。
ですから、内宮の摂社末社は荒木田氏の本拠地と言われる外城田川の流域に多いのでしょう。
(下図の左上の集団「玉城エリア」がそれです)
このように考えてみると「なぜ内宮の摂末社がその周辺だけではなく、玉城に多いのか?」という疑問もすっきりしますね。
また、宮川流域にも摂末社が点在しているのは、上述の「川=境界」による「川への信仰」の現れだと思われます。
伊勢の斎宮はその名の通り通常は神宮からは離れた斎宮に住んでいました。
外宮・内宮に参るときには、宮川の流域にあった離宮に滞在してから宮川を渡ったといいます。
古くはそのときに禊もおこなわれたのでは?とされています。
通常は人の国にいる斎宮が川で禊をして境界を越えて神の国へと入る…というイメージがあったためではないでしょうか?
だから名前も「宮川」とされたのでしょう。
斎宮の宮でも、神宮の宮でもありますよね。
宮川は禊を行う聖なる川なので、川自体を祀ることは至極自然なことですよね。
また宮川はよく氾濫したので、宮川へ祈りを捧げた…という現実的な理由もあると思います。
五十鈴川も禊も行う聖なる川です。
(現在も時々行われています)
その川の神が滝祭神です。
葦原神もまた川を守る神で、その津(港)を守る神であるので、
根の国と高天原(海)をつなぐ港である葦原中津国の神でもあったのでしょう。
そう考えると、外宮で祀られた葦原神が内宮を創始した際に必要な紙だとして
その領地内に葭原神社として祀られたのだと想像出来ます。
ここでまた地図を見てみてください。
実は葦原神の坐す大津神社と月夜見宮は近いのです。
現代と違い、昔は大津神社のある方向の北御門が外宮の正面入り口でした。
入り口の方に川の神…内宮の滝祭神を彷彿とさせますね。
もうひとつ注目したいのが、神路通りです。
伊勢ではこの道を通って毎夜、ツキヨミが外宮の神の元に通う…と言われています。
(ですので、伊勢っ子は神路通りを夜に通っていけないとか、真ん中を通ってはいけないと言われるそうです。)
ツキヨミを黄泉の神ととらえると…その通り道の近くに川の神=境界の神が坐すという構図は上記の世界観にぴったりとあてはまる感覚だと思いませんか?
黄泉の国を支配するツキヨミのそばの境界の神=葦原神=川の神
なのではないでしょうか?
これで「なぜツキノミのそばに川の神がいるのか?」が解決した感があります。
それともうひとつ、外宮内宮ともにツキヨミ宮のまわりに堀のような川があることも
黄泉の神を川と言う境界で隔てて、そこを異界だとしたためではないでしょうか。
つまりは黄泉を封印しているのでは?
月読宮(内宮)にはイザナギ・イザナミも祀られ、黄泉の国感がありますし、
更にそのそばに川の神の葭原神社があるのです。
月夜見宮(外宮)にも同境内に川の神の高河原神社が祀られています。
こうして見て来てみると、内宮外宮ともに、
黄泉の神(月読・月夜見)~川の神(葭原神社・高河原神社)~境界の神(滝祭神・大津神社)
という構成を意識した感も出てきます。
そもそも外宮・内宮にそれぞれツキヨミ宮があることも、
それぞれがかつては別の氏族の祭祀があった証とも言えるのではないでしょうか?
字を変えたことも、同じ神を外宮内宮でそれぞれ祀ることで、外宮と内宮が本来無関係であることへの配慮かもしれません。
更に「なぜ川の神は港の神と混同されることが多いのか」について追記したいと思います。
川を上がる場所が港です。
ですから川の神=港の神とされ、境界の見張り役ともされたのではないでしょうか。
関所のようなものですね。
だから、滝祭神は取次役というわけです。
そして港は人が集まる場所でもあることから、葭原神社にはウガノミタマの御祖=神大市比売=市場の神(人の多いところに祀られる神)が祀られたのでしょう。
神大市比売は湯田神社では大歳神の御祖と表記されていますが、同神です。
大歳神の御祖ではなく、ウガノミタマの御祖とされたのは
周囲に水田が多いため、稲を守る神の信仰の要素が入ってきたためかもしれませんが、確証はありません…。
また機会を設けて考察したいです。
私の考える外宮・内宮のそれぞれの創始についても、また改めて書きたいと思います。