伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【125社めぐり】 摂社 狭田国生神社

 内宮 摂社 狭田国生神社 (さたくなりじんじゃ)

 

御祭神 速川比古命 (はやかわひこのみこと)
    速川比女命 (はやかわひめのみこと)
    山末御魂 (やまずえのみたま)

 

所在地;三重県度会郡玉城町佐田 字牛カウベ322番

 

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田丸城からほど近く。

田丸駅からも近くの好立地(?)にあります。

 

「狭田とは川の支流に挟まれた細長い田のことである」と

宮会館HPにはあります。

地名の「佐田」もここから来たものでしょう。

 

近くを外城田川が流れています。

この外城田川は「寒川」「速河」とも称されたようで、

御祭神の速川比古命の名はここから由来されていると思います。

 

地元で「はいこさん」と称されているようで、これは速川比古命から来ていると言います。

この呼称は昔からあったようで、江戸時代の『勢陽五鈴遺響』では

「方俗ハイコ社域ハ寒河社(さむかわしゃ)ト称ス。」と記されています。

 

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境内はしっかりと囲まれていて、城下町の神社の様相です。

境内を入って社殿までの参道が長いのが印象的で、

市街地だということを忘れさせてくれます。

 

ここにも「享保甲辰」の禁殺生の石柱があります。

この禁殺生の石について、ついに新たな記述が見つかりました。

 

「社頭入口に紀州藩の建てた「禁殺生(享保甲辰・1724)」の石柱がある。

 紀州藩領内の摂末社に建てられたようである。」

神宮会館HP)

 

ということは、

紀州藩が「ここは自分たちが管轄している神社である」

という認識の元に立てた

…と見ても良いのでしょうか?

紀州藩が神宮摂社末社を大まかに管理していたのでしょうか?

 

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さて、この狭田国生神社ですが

皇大神宮儀式帳』には倭姫の定めた社として

「狭田神社」の名で載っています。

 

倭姫命世記』の伝承では、

倭姫命天照大御神を奉じて小川を渡った時、

速川比古命が「畔広の狭田の国」として神田を献上したことから

倭姫命が「速河狭田社」として定めたとされます。

 

その名の通り、御祭神の速川比古命速川比女命

「川の神二柱」であるとされています。(神宮会館HP)

 

また、速川比古命速川比女命天須婆留女命御魂の子とされます。

(『皇大神宮儀式帳』に明記)

 

天須婆留女命御魂といえば、棒原神社(すぎはらじんじゃ)に祀られる星と豊穣の神です。

【125社めぐり】 摂社 棒原神社 - 伊勢河崎ときどき古民家

同じ天須婆留女命の子の長口女命は二見の江神社に祀られ、弁財天と同一視されています。

【125社めぐり】 摂社 江神社 - 伊勢河崎ときどき古民家

 

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一方、山末御魂は土地の守り神であるとされます。

神宮会館HP)

 

山末…といえば、外宮摂社の「山末神社」が思い浮かびます。

こちらの御祭神は大山津姫命(おおやまつひめのみこと)で、

外宮神田の山の神かつ神田に水を満たす泉の神であるとされます。

 

この狭田とも神田繋がりです。

神田の守り神として水の源である山の神を祀る信仰が根底にあるのかもしれません。

 

伊勢に住んでみて気付いたのが、神社(125社以外)で

富士山の浅間神社が祀られているのをよく目にすることです。

やはり山の神を祀り豊穣を祈願するようなスタイルの信仰があって、

山の神を大事にするという考えがあるのかもしれません。

 

伊勢は場所によっては富士山が見える、ということもあるとは思いますが。

(海を隔てて見えます。ディズニーランドから見えるのよりはやや大きく見える感じです)

 

また、天須婆留女命御魂は昴の位置から種蒔を決める習慣から山頂に祭られています。

それも「山=神田の神」という構図と起因しているかもしれませんね。

 

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ところで、「国生」とは何でしょうか?

大国魂を「国の御魂の神。国霊。大地の守護神。

また、特定の地に生れ出た神として国生神という場合がある。」

と言います。(国魂神:玄松子の祭神記

 

イメージとしては、その土地を古くから守ってきた「国津神」とイコールだと思います。

125社の中でも国津御祖神社の御祭神が大国玉命ですね。

【125社めぐり】 摂社 大土御祖神社 ・ 国津御祖神社 / 末社 宇治乃奴鬼神社 ・ 葦立弖神社 - 伊勢河崎ときどき古民家

 

基本的に倭姫が定めた摂社は、土地の神(国津神・国生神)が

アマテラス大神の御杖代である倭姫(天津神・外津国(異国)から来た神)に

神田(領土であり捧げ物)を奉り、その土地の神社の神とされる、

というのが基本パターンになっています。

 

ですので、このパターンに当てはまる神社は皆

「国生神社」又は「大国魂神社」なのだと思います。

 

皇大神宮儀式帳』に「狭田神社」「坂手神社」とされたのが

わざわざ「狭田国生神社」「坂手国生神社」となった経緯は謎ですが

尊称のようなものととらえていいのかもしれません。

(『延喜式』では「国生」がついた名になっています)

 

…それが返って、ややこし名前になってしまっている感があるのですが。

(そこそこ近くにあって、サからはじまって…、この二社はごっちゃになりやすいです。)

 

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狭田神社の名前についてはもうひとつ気になるのは

冒頭でも触れましたが、

江戸時代の地誌『勢陽五鈴遺響』に

「方俗ハイコ社域ハ寒河社(さむかわしゃ)ト称ス。」と記されていることです。

 

寒川は外城田川の異称で、

御船神社でも寒川(外城田川)の波止場の神・川の守護神として

寒川比古と寒川比売が祀られています。

【125社めぐり】 摂社 御船神社 ・ 末社 牟弥乃神社 - 伊勢河崎ときどき古民家

 

寒川…といえば、相模の国の寒川町にある「寒川神社」がありますよね。

こちらのご祭神も寒川比古と寒川比女なのです。

 

御由緒としては創建は雄略天皇の頃とされますので、

伊勢が元になっていると思われます。

 

鎌倉時代の『吾妻鏡』には「一宮佐河大神」と記載があるといい、

「さがわ」と「さた」の繋がりが感じられます。

「さ」は「早」とも書きますので「さがわ」=「早川」とも繋がりますね。

 

もしかすると古代には、御船神社棒原神社坂手国生神社狭田国生神社の社域全般を

「寒川社」のようにひとくくりの感覚もあったのかもしれませんね。

(現在の田丸地区、のような感覚で)

 

「田丸は神宮鎮座の昔から大和と伊勢をむすぶ最古の道、はせ街道が通り、

 江戸時代以降は伊勢本街道と呼ばれて交通の要となった場所で、城下町として栄えた地」

と言います。(神社めぐり| 玉城町

 

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狭田国生神社も中世に祭祀が途切れ、江戸初期に復興されました。

古代には大宮司によって祝部が任官され、日常の祭祀が捧げられていたといい、

現在は1月17日に地区長さんが参拝する仕来りがあるそうです。

狭田国生神社 - Wikipedia

 

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境内の樹木は摂社らしい自然の森の雰囲気もありつつ、

御手入れもしっかりされている印象。

 

田丸エリアの町歩きをしていて、

城下町の素敵なお店を楽しみつつも

ふと神宮の息吹を感じられる…そんな摂社です。

 

何と言っても好アクセスが嬉しいオススメ摂社のひとつです。

 

(2019.10.23.参拝)

 


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