伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【125社めぐり】 摂社 奈良波良神社

 

内宮 摂社 奈良波良神社 (ならはらじんじゃ)

御祭神 那良原比女命(ならはらひめのみこと)

所在地;三重県度会郡玉城町宮古字矢倉戸833

 

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奈良波良神社は「楢原神社」とも表記され、

楢の原生林があったと伝えられています。

 

今も森が多く(残念ながら楢かは不明)、

田んぼの景色も広大です。

鎮座地名の「宮古」は

外宮の神田「宮古御園」のあった場所だとされますので

この水田の風景の美しさにも納得です。

 

田丸駅からは2キロほど、

国道65号線から少し入ったところにあり、

その曲がり角に大きな池があるのも象徴的…。

 

森の中にこんもりした森があり、

道路側に入口がないので要注意です。

 

その森をぐるりと徒歩でまわって裏側に入口があります。

 

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入口にある殺生石は、これま享保「庚辰」の文字。

そろそろ年号も覚えてしまった1724年に紀州藩が建てたものですね。

昨日の久具都姫神社、

更に園相神社田乃家神社田乃家御前神社と同じものです。

 

むしろなぜ全ての摂社にないのか?とさえ思い初めます。

同じ時に石工さんに注文する様子まで見えて来そうです…。

 

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御祭神の那良原比女命はこの地方の田野の守護神と伝えられます。

神宮会館HPより)

 

皇大神宮儀式帳』には、

「楢原神社、称 大水上児、那良原比女命、形石坐、当地五町、四至竝大山」

とあり、またもや大水上神の御子とされています。

 

地域の産土神であり国津神で、田の灌漑、神田や楢原の守護神とされた、

という記述も見られます。(奈良波良神社 - Wikipedia

 

倭姫命の旅の苦労を慮った那良原比女命が、倭姫命に守護地を差し出したと言われるので、

上記のような推察は成り立つと思います。

 

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他の摂社末社同様に、中世に祭祀が途絶えて

江戸初期に再興がされています。

ですが、この再興地には異論反論がとても多いです。

 

そもそもこの地の古老が「若宮」という地名を太神宮末社と伝承していたことから、

「若宮ノ谷」の西に再興したと言われています。

 

「若宮」=「宮古」なのでしょうか?

 

まず、鎮座地の「宮古」について、


復興後170年経った頃の伊勢の地誌『勢陽五鈴遺響』(天保4年)は、

鎮座地「宮古」の名がこの地に遷都が予定されたものの

仏山が湧出したためにかなわず、

地名だけ都(=宮古)になったと解説しています。

 

広域で見ると、

仏山公園と『皇大神宮儀式帳』にある「坐五町、四至竝大山」と

合致はしていそうに思えるのですが、

 逆にこの記述と再興地が一致しないことから異論が多いようなのです。

 

旧社地が宮古の山奥にあったとし(『神宮典略』)、

東南500mにある広泰寺境内に接する南方の丘陵上に残る、

石積の素朴な壇上に安置された方一尺ほどの小祠を

旧地とする説(『二宮管社沿革考』奈良波良神社)、

上都神社を旧社地とする説(伊勢市観光協会. 2013年 玉城ルート1 〜里山の神社を巡る〜)、

などなど…。

 

また、再興地の字名が「矢倉戸」であることから

再興されたのは愛洲氏の櫓跡ではないかと

『二宮管社沿革考』では述べられています。

 

鎮座地の「宮古」については、

旧表記は「宮子」であり、神様の恵を受ける宮の子である

玉城町役場の発行誌では解説しています。

 

式内社調査報告』でも

社名の「奈良波良」と「宮古」(=都)の関係を指摘しているようです。

 

私は、地元の伝承に案外答えがあると日頃から思っていることもあり

「宮子」説が有望で、今の鎮座地で良いのでは?と思うのです。

 

宮(神宮)の子、ともとれますし、

大水上神の深読みできなくもありません。
大水上神は内宮近くの那自賣神社で祀られてます)

 

そもそも、鎮座地の正誤は歴史的には大事ですが

信仰としては、遷座されていたとしても特に差し障りは無く感じるのですが…。

 

現在は祝部に任命された方が平時の管理を務めていらっしゃるそうです。

 

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さて、入口を求めて森をほぼ一周したのでとても広く感じる境内ですが

平安時代には「坐五町、四至竝大山」と言われたことから

もっと広大であったことがわかります。

 

古代の社地=5町≒49,585mに対し、

現在の社地=9,500m2ほどとなっています。

明治4年1871年)に上知令で社域林を没収されたものの

1892年(明治25年)に6段8畝19歩(≒6,807m2)が返還された

という記録もあるそうです。

 

(明治政府は寺社や城郭に対してひどいことしかしませんよね。まったく!怒)

 

 

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境内には今でも楢の木も混在ししているのかもしれませんが

杉の真っ直ぐとした姿が印象的です。

社殿の奥左には二本の杉が夫婦杉のようによりそいながら守るように立ち、

(写真1枚目)

鳥居のそばでも真っ直ぐ同じように天に向かってそびえます。

 

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この田丸エリアには古墳も多く、

ここ奈良波良神社の近くにも古墳群があります。

 

湯田神社や川原神社など、

古墳と摂社のあるエリアの重なりは

当時の文化や生活を知る上で貴重ですね。

 

やはり、集落が出来る理由は水田の発展であり、

その水田の豊作のために信仰が生まれ(国津神産土神)、

それを朝廷(神宮)が統括していったという流れを感じます。

倭姫の旅路が川の旅・水分の旅である所以だと私は思います。

 

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午後14時過ぎに訪れましたが、

静かな境内に杉の木に沿って光が降り注ぐ様は

うっとりと見惚れてしまうに充分で、

思いは太古に馳せつつ、ずっと佇んでいたくなる…

そんな奈良波良神社さんでした。

 

(2019.10.23.参拝)

 


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