伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【禁殺生石の謎】 神宮125社との関連?

殺生石については

未だ詳らかにされていないことが多いのですが、

紀州藩によって置かれたことは間違いがありません。

 

『勢国見聞集』に奉納された寺社が列挙されているのですが、

今日は125社にフォーカスしてみたいと思います。

 

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園相神社入口

 

125社の考察をしていて

「この石柱に意味はあるのか?」

「あちこちにあるけれど、全部にあるわけでもない」

「なぜ?」

と思ったのがそもそもこの禁殺生石を調べるきっかけだったのですが、

以下が、設置されている125社です。


甲辰○園相神社伊勢市津村町 )小社「園相神社」 
甲辰○田乃家神社 田乃家御前神社 (度会郡玉城町矢野) 小社「田乃家神社
甲辰○蚊野神社 蚊野御前神社 (度会郡玉城町蚊野 )小社「蚊野神社
甲辰○湯田神社伊勢市小俣町湯田) 小社「湯田神社」(論)小社「雷電神社
甲辰○朽羅神社度会郡玉城町原) 小社「朽羅神社」   
甲辰○久具都比賣神社度会郡度会町上久具) 小社「久々都比売神社」 
甲辰○奈良波良神社度会郡玉城町宮古) 小社「奈良波良神社」 
甲辰○棒原神社度会郡玉城町上田辺) 小社「榛原神社」
甲辰○御船神社多気多気町土羽 )小社「大神乃御船神社」 
甲辰○坂手国生神社度会郡玉城町上田辺 )小社「坂手国生神社」 
甲辰○狭田国生神社度会郡玉城町佐田) 小社「狭田国生神社」  
甲辰○多岐原神社度会郡大紀町三瀬川) 小社「多伎原神社」  

 

殺生石には年号が刻まれ、

それにはいくつかのパターンが見られますが、

↑は、いずれも享保甲辰になっています。

 

また、この神社はどれも内宮(皇大神宮摂社です。

 

『勢国見聞集』には、

川原神社伊勢市佐八町) 小社「川原神社

 葭原神社月讀宮境内) 小社「荻原神社

この二社にも甲辰の禁殺生石があるように書かれていますが、現存しません。

これについては後述するとして、

まずは現存している神社を地図上で見てみましょう。

 

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一定の地域に固まっていることがわかります。

○で囲った部分を拡大すると、以下のようになります。

 

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どうやら、田丸城下の摂社に限られていることがわかります。

 

逆に、内宮摂社にも関わらず石がないのは…

 

朝熊神社 朝熊御前神社伊勢市朝熊町) 小社「朝熊神社
鴨神社度会郡玉城町山神) 小社「鴨神社」  
大土御祖神社  国津御祖神社 (伊勢市楠部町) 小社「大土御祖神社
宇治山田神社伊勢市中村町) (論)小社「大国玉比売神社」
津長神社伊勢市宇治今在家町) 小社「津長大水神社」 
堅田神社伊勢市二見町茶屋) (論)小社「大国玉比売神社」(論)小社「榎村神社
大水神社伊勢市宇治今在家町) 小社「大水神社
江神社伊勢市二見町江) 小社「江神社」  
神前神社伊勢市二見町松下) 小社「神前神社」   
粟皇子神社伊勢市二見町松下) 小社「粟皇子神社」 

 

いずれも、朝熊エリアや宇治エリア、二見エリアと

当時紀州藩の藩外の新領地とされていたエリアにあることがわかります。

 

その中で気になるのは「鴨神社」ですよね。

田丸地区にあるのになぜ?

 

これは鴨神社の祭祀がもしかすると神宮と別系統である可能性と、

(こちらで考察→【伊勢神宮の歩き方】 玉城エリア 摂末社ツアー 【125社めぐり】 - 伊勢河崎ときどき古民家

江戸時代に再興された現在の社地が間違いであった可能性の

少なくとも2説が思い浮かびます。

 

また、『勢国見聞録』に石のある寺社の中に「榎村神社」とあり、

現在は不明となっているのが堅田神社の論社に見られます。

論社とは、似たような名の神社が二つ以上あって、

どれが『延喜式』に記されている神社か決定し難いものをいいます。

 

この堅田神社も謎が多く、榎村神社については不明です。

(参考→【125社めぐり】 摂社 堅田神社 - 伊勢河崎ときどき古民家

立地的にもしかして「江の村」=二見を指したのかもしれまんが…

単純に他の沿岸の村なのかもしれません。

 

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川原神社入口

 

さて。

125社の摂末社のほとんどは戦国時代の騒乱に巻き込まれ、

神宮による祭祀が続けられなくなって地元民が産土神として祀ったり、

その社地自体がなくなってしまっていたりします。

 

それを現在に近い形に再興されたのが、

寛文3年(1663年)、河邊精長によるものです。

 

河邊精長は山田に生まれ、若くして出家し大中臣氏と名乗りますが、

伊勢神道の興隆に興味を持ったため、還俗し出口延佳から神道を学び

伊勢神宮神職となった人です。

 

摂末社の再建は地元に残る文書や伝聞などにより

元々の社地の特定に努めたようですが、

異論のある摂末社もいくつもあります。

 

上記の

川原神社伊勢市佐八町) 小社「川原神社

 葭原神社月讀宮境内) 小社「荻原神社

もそのうちのふたつです。

 

川原神社は、外宮摂社の河原淵神社を旧社地とする説や

現在は大口神社に合祀されている竹ヶ鼻神社がそうであったという説などもあり、

最も異説の多い神社のひとつですし、

霞原神社も小社荻原神社とは別であるという説もあります。

 

極論ですが、この禁殺生の石があるはずなのにないということが

この二社の現在地が旧社地ではない証左となりえるのかもしれません。

 

125社を巡った際にはまだこの禁殺生石に興味が薄かったので
またじっくり現物を見に行きたくて仕方のないコロナ禍の日々です…。