伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【125社めぐり】 摂社 御船神社 ・ 末社 牟弥乃神社

 内宮 摂社 御船神社 (みふねじんじゃ)

御祭神 大神御蔭川神 (おおかみのみかげかわのかみ)

 

内宮 末社 牟弥乃神社 (むみのじんじゃ)

御祭神 寒川比古命 (さむかわひこのみこと)

    寒川比女命 (さむかわひめのみこと)

 

所在地;三重県多気多気町土羽字南出505

 

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倭姫が定めた社とされ、

摂社の御船神社末社牟弥乃神社が同座しています。

 

延喜式』では 小社「大神乃御船神社 」とされ、

神様の舟―日本神話の「天鳥船」を連想する名になっています。

 

「このあたりが外城田川の終点地であり、

 倭姫命がさかのぼられたとき、御船をとどめられたといわれる」

という由来が神宮会館HPに見られます。

 

御船=倭姫(アマテラス大神)の舟、

ということになりますね。

 

地名の「土羽」は「止場」を表すそうですので

古代には川を上り下りするのによく使われた場所なのでしょう。

 

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この御舟神社で印象的なのは、まず入口です。

この大きな常夜燈。

ちょうど火を灯す丸い刳り貫きは大人の頭が入る大きさと位置。

夜になったら歩き出すんじゃないか…

と、日本昔話的な情景を想像してしまいますが、

天保14年(1843)」とあります。

 

そして、高くそびえる石段。

とてもしっかりガッチリした造りなのが珍しいです。

こちらは文政6年(1823)とのこと。

 

いつもの「享保庚辰」の殺生石もあります。

 

何があってこんなに大きな常夜燈や立派な階段が造られたのか興味深いです。

 

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 御祭神の大神御蔭川神は内宮摂社の蚊野神社でも祀られていて

田畑を潤す外城田川の守護神とされています。

神宮会館HPには「船路交通の守り神」ともあり、

ここでは立地の関係から水上交通の守護神とされているのだと思います。

 

『神宮典略』では「御蔭」には霊魂、恩恵(=おかげ)の意味があり、

神田に引水する川のほとりに祀った大神の霊であるとあります。

「おかげまいり」の「おかげ」と同じですね。

 

御神体は「形無」と『皇大神宮儀式帳』にはありますが

天照大神の神体を奉安する御樋代を納める御船代(みふなしろ)が

遷御後に御船神社に納められたのではないか」

と薗田守良氏は推定したといいます。

御船神社 (多気町) - Wikipedia

 

ですが、現在御舟倉を持つのは別宮・瀧原宮のみです。

(別宮・瀧原宮の所管社の若宮神社に神体を入れる御船代を納める御船倉が併設されている)

(参考→瀧原宮 - 伊勢市立図書館史料より

 

階段を上りきったるとあまりにもすっきりと広々としていて、

確かに他に何かあったのでは?と思いたくなる気持ちもわかります。

 

また、神社名から「天鳥船神」を連想したのは私だけではないようで(苦笑)

『伊勢二所太神宮神名秘書』、『伊勢国神名帳考證』、『延喜式神名帳僻案集』などに

祭神を天鳥船としているようですが、

どの本も中世以降の書籍で少々ドリーミングな発想と思わざるを得ません。

 

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同座の牟弥乃神社は祭祀が途絶え所在地が不明になっていたのを

明治四年に御船神社に祀られたといいます。

旧座地については未詳です。

 

御船神社に同座されたのは、祭神の寒川比古命寒川比女命

大神御蔭川神と同じく外城田川の守護神であるとされたためでしょう。

「寒川」とは外城田川のことを指すようです。

 

『神宮要綱』に

倭姫命皇太神を奉じて御宮地を覓め給ひし時、

 伊蘇宮より寒河を泝りて此の地に至り、

 御船を留めて御船社を定め給へること太神宮本記に見ゆ。

  是れ本社(御船神社)の起源なり。」

とあり、

「川の水が冷たく、寒かったことから倭姫命命名した」

とも言います。

(金子延夫『玉城町史 第1巻―南伊勢の歴史と伝承―』)

 

寒川比古命寒川比女命は、神宮界隈の川の神(私見)・大水上命の子とされますので

国津神で、倭姫を出迎えた神であったかもしれません。

 

神社名の「牟弥乃(むみの)」については不明ですが、

元々御船神社と近くにあったとするならば

所在地の多気郡の「有尓郷(うにのさと))」と似た字面から

地名であったかもしれませんし、

むしろ「うに」が「むみ」が訛ったものかもしれません。(逆もまた然り)

または、隣の「みのむら(蓑村)」のことかもしれません。

蓑村との堺には「宇尓神社」があったそうで

「この地は昔、天照大神が五十鈴の川上にお鎮まりになったときから

 伊勢神宮神だちの置かれたところです。

 神だちというのは神宮の役所で孝徳天皇の大化5年(649年)までありました」

と言います。

 

この大化5年に度会郡から多気郡が分立したために

有尓郷は度会郡田辺郷に属していたのが

多気郡に属することになったそうです。

(「有尓郷土羽村在」の注釈が『皇大神宮儀式帳』にはあり、

 『延喜式」には「度会郡」の項に記載があります。)

 

「うにだち(宇仁舘)」とは、土器の製造所です。

倭姫の采女の「忍比売(オシヒメ)神嘗祭のための土器を作ったことから

物忌として宇仁郷(有尓郷)に居住し、

蓑村の天毘良加山(あまのひらかやま)の土で土器を作って

神宮に調進することを子孫に受け継がせたといいます。

 

また、その子孫が御師「宇仁太郎では?とも。

(『宇仁舘物語』秋田耕司)

 

話が逸れましたが「土羽」の「土」とも関係があるかもしれませんね。

そういえば式年遷宮の御船代祭が行われるのは土宮の前…

偶然でしょうか…?因果でしょうか…?

 

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さて。

この御船神社で注目すべきは、やはり神社の造りです。

入口も特異なことはご紹介しましたが、階段を上りきった境内もまた不思議です。
綺麗に石垣がめぐらされ、その様は石の船のような、城跡のような?

 

御舟神社も他の摂社末社と同じく、中世以降祭祀が断絶し、

寛文3年(1663年9月30日)に再興されています。

 

この時に堀の跡や古い柱の穴や朽ちた木が発見されそうですが

神社としてのものだったのか、境内にいると少々疑問に思えます。

他の摂社末社とは一風違った雰囲気なのです。

やはりあまりにも「整っている」と言いましょうか…?

 

「土羽村の隣の村にある、里人が「御船社」と俗称する氏神が旧社地である」

と神官で国学者の中川経雅は主張したと言います。

 

その「隣村の御船神社」とはどこかがまた謎なのですが…。

これが元の「牟弥乃神社かもしれませんし、

牟弥神社と宇有神社が関係していたら面白いのに…

などなど妄想は暴走していきます。

 

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余談ですが…

虫送り(豊穣祈願のお祭り)で有名な「鳥墓神社(とつかじんじゃ)」がこの界隈にあるのですが、

御由緒が以下の通りです。


「『延暦儀式帳』には、垂仁天皇皇大神宮鎮座時から孝徳天皇の御代まで、

有爾鳥墓(うに・とつか)村に神痔(かんだち)があり、

神宮の諸々の神政を取り仕切っていた、という記述があり、その神痔がこの地にあったとされる。
神痔は孝徳天皇の大化五年(649)に外宮近くの山田原に移転し、

その後、御厨(みくりや)、そして大神宮司(おおかみのみやのつかさ、だいじんぐうじ)と改称した。
大神宮司はその後、現在のJR宮川駅に隣接する離宮院公園の位置に移転することになる。
神痔移転の後はその跡地に国生神社(祭神:倉稲魂命須佐之男命)と

有爾神社(祭神:埴安神)の二社が建ち、

この二社はその後合祀して鳥墓神社と改称、

明治に世古村の八柱神社を合祀して今に至るという。」

 

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見所も考え所もたっぷりの御船神社で、

すっかりお話が長くなりましたが、最後にもう一度境内の様子に目を向けると

入口と上がったところにある石の水盤が気になりました。

「若連中」と刻まれていて、

「町の若い衆が奉納されたのでしょう」と伊勢の神具屋さんがおっしゃっています。

御船神社・牟弥乃神社,神棚・神具 伊勢宮忠 伊勢神宮125社巡り

 

旧鎮座地や歴史的なことも気になりますが

何よりも「今」、

こうして信仰厚く守られていることが何より大事だよ、と

言われたような気持ちになります。

 

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困ったことに、それでもやはり古に気持ちは向いてしまうのは

性なのだなぁ、と自省。

それでもエゴというか業というかそんな思いも消えないのです。

消えてもまた繰り返し点ります。

常夜燈の火の如く。

 

(2019.10.23.参拝)

 


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