【125社めぐり】 摂社 江神社
内宮 摂社 江神社 (えじんじゃ)
御祭神 長口女命(ながくちめのみこと)
大歳御祖命(おおとしのみおやのみこと)
宇加乃御玉命(うかのみたまのみこと)
ここは、ある意味では最も「探検」気分を味わえる摂社だと思います。
二見駅から「二見シーパラダイス」を経て、山に入って行きます。
「太江寺」の看板があるので、そちらを目指して行きましょう。
込み入った住宅街を歩きます。
え?二見にこんな素敵な町並みが残っていたの!?
と、古民家LOVEの私は胸を躍らせてしまう、
味わいのある古民家が沢山並びます。
途中、謎の大岩もあったりして、未知の探索気分を味わえます。
古民家を抜けると、突然森が現れます。
そこへは、物語に出て来そうな道が続きます。
大草原の中の道。
一気に開けた視界に驚いていると、大きな鳥(鷺より大きい)が
私に驚いて草むらから飛び立ち、こちらもびっくり。
お互いに「自分以外に誰かいるとは驚きだわ!」という気分だったのは間違いないです。
この唐突に開けた草原の道の先に、江神社があります。
ファンタジーや脅しではなく、野生動物が住んでる森、という感じです。
まさしくネイチャー。
まさしく冒険です。
「五十鈴川の河口で入江になっているところからの社名である。 」
と、神宮会館HPにはあります。
また、「俗に「蒔絵(巻江)の明神」とも称される」とも同HPに記載があります。
入り江を巻いて松が林立する光景からの名のようで、
『寛文摂社再興記』など江戸時代の書物にも載るほどポピュラーな名称だったようです。
(現在の地名「明神奥」と関連してますね。どちらが先でしょう?)
同じ「江」の名がつき、江神社の近くにある「太江寺」は、
天平年間(729~749年)に行基が「江寺」の名で興玉神の本地垂迹として創建したといいます。
行基が天照大神のお告げを受けて、二見浦で興玉神を参拝したところ、
金色の千手観音を感得した。その姿を刻んで祀るため開創し、
鎮守社として興玉社も境内に祀ったと伝わるそうです。
その鎮守社を後に現在の二見浦へと遷座したのが興玉社(現興玉神社)のはじまりのようです。
同じ「江」のつくことから、江神社もこの2寺社と関係がありそうなのですが…。
江神社は倭姫の定めた社で、長口女命を祭神とすると『皇大神宮儀式帳』にはあります。
長口女命は元伊勢の祭神にもなっている女神であり、別名を「江之姫」と言い、
弁才天と同じ神であるとも言います。
(『日本人なら知っておきたい 伊勢神宮と125の社』タツミムック)
太江寺や興玉社といい、本地垂迹の色が濃いですね。
いつから御祭神に名を連ねたかは謎ですが、
大歳御祖命は穀物神・豊穣神として、摂社末社の御祭神の常連ですから
ご多聞に漏れずの豊穣祈願で後から祀られたとしても納得ですが、
気になるのは、宇加乃御玉命ですね。
これは個人的な見地ですが、外宮の豊受姫との関連を感じます。
それ故に同一視されることのある神です。
また、ここ二見においては興玉神社の御祭神の一柱にもされています。
そして、もうひとつ注目したいのが御親神・須婆留女命です。
スバルメ―昴・女、ではないでしょうか?
実は外宮の神は北斗七星と関係があるという説があります。
(出典失念です。後日また書きます)
また、祝詞において「日の神、月の神、星の神」を言祝ぎしますが
この北斗七星説から「星の神」は外宮の神ではないかと思うのです。
そして、星つながりで「昴の女神=スバルメ命=豊受姫=宇加乃御玉」と思うのです。
若干また強引理論ではありますが、
伊勢神宮を整えた天武天皇は天体の観察にも秀でていたといいます。
これは天武天皇が「大海人皇子」の名から、海人族との関係があり
航海には星見が不可欠であることを熟知していたことに起因するのでは?
と私は思っているのですが。
その天武天皇だからこそ、星を祀ることをしてもおかしくはありませんよね。
そして、皆様も思ったことはあると思うのですが、
「アマテラス・ツキヨミ・スサノオ」
が「日・月・星」でなく「日・月・海」とされるのはなぜか。
「海=星」という感覚が昔は強かったのでは?
もしくは隠喩的に込められたのでは?と思うのです。
伊勢は町ではスサノオ信仰があちこちに見られます。
この「スサノオ=星=外宮との関係」はまた考察していきたいと思います。
さて、昨日堅田神社のお話でも触れた「佐見津日子問題」を覚えてくれていますか?
『倭姫命世記』には
五十鈴川の入り江で佐見津日子命と会い、
その地名を尋ねたところ「五十鈴河後」と答えたので
この「江社」を定めたと記されています。
地名を答えるとは、その「名」を相手に渡す、
つまりは「国譲り」のことを指します。
ですからその地を安堵するためにも国譲りをした国つ神は
その地の祭神にされることが他の摂社末社では多いのです
ところが佐見津日子命は江神社の祭神にはしてもらえていません。
『二見町史』は、江神社が明治以前は「八王子社」と呼ばれ、
祭神を「氏神佐美都彦命」としていたと記しているという情報を得ました。
八王子社はスサノオの子を祀る社です。
ここでまた、スサノオの影が。
「さみ」とは堅田神社界隈の古い地名ともされますが
「さみ」のつく125社には志摩に鎮座する
伊雑宮所管社の「佐見長神社」「佐見長御前神社」があります。
この祭神は大歳で、この地に伝わる穂落伝承に登場する真名鶴が大歳神であるとされますが
ほかに「大歳神」はスサノオの子であるとする説、
伊佐波登美神またはその子とする説、穀物の神とする説が出されていると言います。
『宇治山田市史』では佐美長神社の祭神を「神乎多乃御子神」としていて
「神乎多乃御子神」は『延喜式神名帳』記載の同島坐神乎多乃御子神社(神織田御子神社・佐美長神社に比定される)の祭神であり、
粟島(=志摩)の神の子である水田の守護神と考えることができるとも…。
はい、ちょっと待ったですね。
「スサノオの子」=「八王子社」=「佐見津日子」=「大歳神」が繋がりました!
そして、「粟島」。
「粟皇子神社」がこの二見に鎮座していて
祭神は須佐乃乎命御玉道主命(すさのおのみことのみたまのみちぬしのみこと)、
アマテラスの元にスサノオが赴き、誓いを立てた時に誕生した女神です。
別名を淡海子神(あわみこのかみ)と称すそうです。
「粟島の皇子=スサノオの皇子」と見て良いのではないでしょうか?
須佐乃乎命御玉道主命は記紀では、宗像三女神とされています。
宗像三女神の三女イチキシマヒメ(市杵島姫命)は弁才天とされますから
長口女命が弁財天とされたのもここに起因していそうです。
また、宗像氏といえば、大海人の皇子との関係が強い、海人族です。
以前から「スサノオって大海人皇子とイメージが被るな」と思ってはいたものの
根拠はほぼなかったのですが、これは「まさしく」と思ってしまいます。
(余談ながら、記紀編纂に深く関与したであろう藤原氏(中臣氏)は神職の出で
中臣氏は度会氏・荒木田氏との関係もあります)
つまり
江神社の「大歳神=スサノオの子=佐見津日子」で
「佐見津比女(堅田神社祭神)」の夫。
スサノオ由来なので、八王子社に祀られていた。
「長口女命=弁財天=宗像三女神=須佐乃乎命御玉道主命=スサノオの子」で
スサノオの子つながり。
宇加乃御玉=豊受姫=稲荷明神
(巻き江の明神の由来?)
神社にお稲荷さんが併座している関係(繰り返し考察中の私見)と
(御前の神との関係もありそうですよね)
という決着でいいかと思います。
またこのことから
堅田神社の論社「榎村神社」も、江の村(字)の神社=江神社のことだと推察します。
そういえば、興玉神社には天の岩屋があります。
天の岩屋は元々は三宮神社で、ここに宇加乃御玉命が祀られていました。
それを明治に興玉社と合祀して、現興玉神社になったのです。
江神社は江戸時代の復興の時に、現鎮座地ではなく太江寺との説もあったそうです。
興玉神社が125社でないことには謎を感じていましたが、
密かに濃い因果があったのですね。
玉といえば、↑写真の丸い岩が江神社の先にありました。
そしてその先には参宮線が通っています。
大冒険に思えたこの地も実は線路からはちらっと見えるのでした。
(2019.10.05.参拝)