【125社めぐり】 外宮 摂社 度会大国玉比賣神社
外宮 摂社 度会大国玉比賣神社 (わたらいおおくにたまひめじんじゃ)
御祭神 大国玉命 (おおくにたまのみこと)
弥豆佐佐良比賣命 (みずささらひめのみこと)
昨日の度会国御神社同様に外宮境内に鎮座します、
が、
こちらは正宮などのエリアからは直行出来ません。
一度境内を出て右手に神宮の森を見ながら歩いてください。
途中茜社を通りすぎます。
道が曲がる位置まで行きます。
豊宮崎文庫が見えます。
宮崎の御花畑と名付けられたお花が植えられた場所です。
信号を渡らずにまだまだ森を右手に歩いてください。
この辺りからは歩道が埋もれてますので、車に注意です。
100メートルほど行くと入口が見えます。
ちなみみこのまま更に直進します同摂社山末神社があります。
このようなロケーションですが、訪れる人は少ないです。
鬱蒼と茂った森の迫力に気圧されて、
ちょっとドキドキしながら境内に足を踏み入れますと
思いの外長く整備された参道があります。
奥に行きますと、末社の伊我理神社と井中神社が鎮座します。
度会大国玉比売神社は手前。
手水鉢のある辺りの右手に石段があり、そこに鎮座しています。
石段はふたつ並んでいて、今の社と古殿地に
別々に上がるスタイルになっています。
これは少々珍しいですよね。
そのせいか、風格を感じます。
現在は右手が社殿です。
「祭神は度会地方の地主神二柱、大国玉命と弥豆佐佐良比賣命。
林生した老杉が覆う境域である」
と、神宮会館のHPはそっけないほどにあっけなく紹介がされています。
この辺りは「大黒谷」と称する小さな谷間で、
「このあたりの山を高神山という。
この神は、 古くから高神山を中心とする
度会地方の地主の神として仰がれてきた神である。」
といいます。
「神武天皇の命でこの地を国見に来た度会氏の祖である天日別命が、
賀利佐峰(かりさのみね。外宮背後の高倉山の一部)を「渡り」、
岡本の地で大国玉命、弥豆佐佐良比売命の二柱に「会った」ことで
この地方を「渡相(ワタラヒ)」と呼ぶことになった。
この時祭神両神は持っていた弓をかけて橋を作って出迎えたという。」
という逸話が残されています。
高神山は高倉山と同義でしょうか?
高神山という名からは天孫降臨なども彷彿とさせますが、
外宮境内の「亀石」には、「高倉山の天岩戸の戸」という伝説があります。
神に匹敵する存在が住んでいたのでしょうか?
そしてそれが度会氏の祖、ということでしょうか?
元々こちらは
度会之大国玉姫の社(わたらいのおおくにたまひめのやしろ)
と称していたと言います。
御祭神は社名の通り弥豆佐佐良比賣命が主とされていたのだと想像します。
弥豆佐佐良比賣命は
昨日の度会国御神社の祭神・彦国見賀岐建与束命の母とされています。
伊勢津彦の娘で天日別命の妻となり
伊勢国造の彦国見賀岐建与束命を生んだことから
伊勢国造の祖とされています。
また、水佐佐良比賣命は夫水佐佐良比古命と共に
内宮摂社・大土御祖神社の祭神となっていて、
大国玉命と共に祀られています。
ミズササラヒメ命( 弥豆佐々良比売命)は『伊勢国風土記』逸文では
伊勢国造の祖・天日別命の妻とされいて
ミズササラヒコ命(弥豆佐々良比古命)はその夫の天日別命と見られています。
平田篤胤は、
大土の神というのは猿田彦神 (あるいはその子孫の大田命) のことで、
この神社は宇治の狭長田を開拓した豪族・猿田彦大神 (大田命)をお祭りした神社
と言っています。
【125社めぐり】 摂社 大土御祖神社 ・ 国津御祖神社 / 末社 宇治乃奴鬼神社 ・ 葦立弖神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
また、この度会大国玉比売神社は、内宮摂社・堅田神社の元の社ともされていて
祭神・佐見都日女命は伊勢津彦の娘となるという指摘もあります。
【125社めぐり】 摂社 堅田神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
大国魂は国津神を指し、固有名詞ではありませんが、
以上の記事の考察から、ここでは
大国玉命=伊勢津彦
ということになりそうです。
『伊勢国風土記』逸文の一説には
出雲の神(大国主神)の子である出雲建子命の別名が「伊勢津彦の神」である、
ともされます。
一般的に「大国魂」といえば「大国主」とされることも多いですよね。
ここにその鍵が…といった感じでしょうか。
この伊勢津彦、天日別命に国譲りを断り、
その後攻められそうになり
神風に乗って東方に逃げた、とあります。
そしてここは外宮の東端ですね。
【125社めぐり】 摂社 宇治山田神社 ・ 末社 那自賣神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
堅田神社は御塩を司る神、
大土御祖神社では御田植えの際の田楽が奉納されます。
神宮に於いて重要とされる塩と稲を
度会氏の祖神が司っていた故の繋がりではないでしょうか?
後々、度会御国神社の境内(世義寺)が
経済のど真ん中に位置するようになったのも、その所以かもしれません。
この度会大国玉比売神社で特筆すべき点があります。
それは、
「中世多くの摂末社が廃絶したが、当社は常に存在していたと思われる。」
( 度会大国玉比売神社)
「度会大国玉比賣神社は祭祀が途絶えることも、鎮座地が移動することもなく、現代まで受け継がれてきたと考えられている」
ということです。
外宮の禰宜を務めた度会氏が最も尊び、
祭祀を外宮同様に篤く行ってきた様子が伺えます。
と、いうことは
社殿の特別な姿も古代から変らないスタイルなのかもしれません。
そしてその姿には出雲の社の姿にも繋がりそうな…?
実はすごい!度会大国玉比売神社!
と言いたくなって仕方がない私です。
外宮境内の知られざる摂社末社にも
足を御運びいただくと
正宮とはちがった神宮の祭祀の姿を感じることが出来ると思います。
(写真;2018年10月、2019年6月撮影)