伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【125社めぐり】 末社 鴨下神社

 内宮 末社 鴨下神社  (かもしもじんじゃ)

 

御祭神 石己呂和居命 (いしころわけのみこと)
    鴨比古命 (かもひこのみこと)
    鴨比賣命 (かもひめのみこと)

 

所在地;三重県度会郡玉城町勝田字上ノ山3642

 

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今日から内宮末社に突入です。

順位順・参拝した神社をご紹介しますが、

末社は摂社と境内が同じ例も多いので、

そちらは摂社とともにまとめてあります。

よろしかったらご覧下さいませ。

 

さて、鴨下神社ですが

ほぼサニーロード(530号)沿い、お店もあるエリアにあります。

少々入ったところにある、こんもりとした森を見つけてください。

 

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「鴨神社ご鎮座の山の裾の方であるため、鴨下神社と称されている。 」

神宮会館HPでは紹介されていますが、

鴨神社のある大日山(名前が印象的)の山麓にあるものの

それほどすぐ近くにあるわけではありません。

鴨神社は約2.5キロ先、山の中ほどにあります。

 

(まだ鴨神社には参拝する機会がなくいます)

 

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境内はそれほど広くはありませんが、

摂末社ならではの雰囲気に包まれています。

この鴨下神社は、社殿の真後ろに立つ木が

背後を守っているかのような姿が特に印象に残ります。

 

末社は摂社と社殿の造りが違います。

大きさや玉垣など…あとは扉のつくりも。

 

実は社殿の正面写真がブレてしまっていまして

(御祭神がシャイなのか?)

(いえいえ私の未熟さ故です)

載せるか悩みましたが載せておきます。


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内宮末社第一位の鴨下神社ですが、色々とイレギュラーが多いです。

 

 「以上の研究成果より、鴨氏の存在が注目されるが、

 さらに鴨神社を考へる上で看過できないのは鴨下神社の存在で ある。

 鴨下神社は式外の神社ではあるけれども、

 『皇太神 宮儀式帳』によれば鴨神社同様造宮使の造替 で、

 田社の中で唯一別格扱ひを受けてゐる。

 また御祭神も同書に「大水上兒、石己呂和居、鴨比古、鴨比賣命」 と記されてをり、

 後に触れるが「石己呂和居命」は鴨神社 と同祭神であり、

 他の二柱は「鴨」にそれぞれ、両性の普通名詞を付した神名である。 」

と、『式内社調査報告』にあります。

 

どういうことかと言いますと、

まず、鴨神社と同じく皇大神宮に準じて

造宮使による式内遷宮を行う規定がされていたこと。

延喜式』では田社と格付けがされている鴨下神社ですが、

田社でのこの扱いは破格だったようです。

 

また、鴨神社と同じ祭神をまるで上社下社のように祀っていること。

 

皇大神宮儀式帳』では

「一未官帳入 田社事

 鴨下神社一処 大水上児 石己呂君 鴨比古

 (鴨比)売命 形無

  右神社太神宮造奉使(造奉)而祝 形無」

と特記事項としてそのことが記されています。

 

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「社名の「鴨」は従来、旧地名であると考えられていたが、

斎宮遺跡の発掘の進展により、水司の鴨氏との関連が指摘されるようになった」

と、言います。(式内社研究会 編『式内社調査報告 第六巻 東海道1』 

 

斎宮の発掘調査は近年目覚しく進展をしていて、

斎宮という施設が考えられていたよりも広大であったなどの新事実が発覚しています。

 

私は元々は平安時代の文学を専攻していましたが

徐々に古代に惹かれて、万葉集日本書紀を学び、

伊勢神宮斎宮について卒論を書きましたが、

その頃からずっと心にひっかかっていたのが

「伊勢の斎宮」と「加茂の斎院」です。

 

平安時代には、斎宮は徐々に伊勢に下向しなくなり、

斎院(斎王)と呼ばれる賀茂の神に仕える皇女が任命されるようになり、

フューチャーされて来ます。

むしろ、上賀茂下鴨両神社の加茂の祭り(葵祭)が貴族に人気だったこともあってか

平安女流文学では、斎宮より斎院の方に注目が集まっています。

 

なぜ、この「斎院」が起こったかと言いますと、

歴史的には平安時代初っ端の「薬子の変」との絡みと言われますが

信仰や祭祀の面で見ると、この制度は斎宮に倣った面が多く、

伊勢の神宮との関連も軽視できません。

 

「鴨氏」は三輪氏とも縁が深く、

私は三輪氏の司る大神神社伊勢神宮の関連についても因縁を感じています。

その検証をする上でも「鴨氏」はキーパーソンならぬキーファミリーなのですが…

これは長くなるのでまた別にお話するとしましょう。

 

さて、その「鴨氏」の縁の「加茂神社」は、上賀茂神社下鴨神社に分かれていますよね。

そして、この「鴨神社」と「鴨下神社」が山頂と山麓に祭神を同じくして分立している様は、

全くの偶然とは言えないでしょう。

 

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鴨氏の祖・賀茂建角身命は、

神武天皇が東征されたとき三本足の八咫烏となり

導いた功により山城国の北部一帯を賜わった

と、『日本書紀』などには記されています。

 

八咫烏といえば、熊野。

ここにも伊勢を挟んでの繋がりが隠れています。

 

また、葵祭欽明天皇が豊穣を祈ったのが起源とされますが、

これもまた伊勢神宮の最重要祭事とも繋がりますよね。

 

葵祭は、石清水祭、春日祭と共に三勅祭の一つとされます。

「岩清水」と「春日」も伊勢ではよく耳にするワード、ですよね?

 

元来は賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族が見物するようになり

源氏物語の「葵」での車の騒動の場面が有名ですね)

対して、八坂神社の祇園祭は民の祭りであるとされました。

 

この構図も、伊勢での神宮アマテラス信仰と、

蘇民将来などのスサノオ信仰の構図とかぶります。

 

伊勢が起源のものが平安の都に移ったかのような様相に感じてしまいます。

(伊勢贔屓主観)

 

というよりもこれは、

賀茂氏と朝廷の行事として行っていた」ということは、

天武朝で皇祖神とされたアマテラス大神を祀る伊勢の神宮から

平安遷都をきっかけに賀茂氏が自身の関連する神社へと覇権を移そうとしたのではないでしょうか?

 

鴨氏は天地の二つの始祖があるとも言われますが、

(前述は主に天祀の方ですが、私は元1つだと思うのですが)

地祀の賀茂氏陰陽道に繋がっていきます。

 

蘇民将来の記事でも触れましたが、伊勢界隈には陰陽の色も濃いのですが

これも元々は伊勢にあった陰陽道の礎を、

山背国に基盤を置いた賀茂氏平安時代に確立していったのではないでしょうか?

 

陰陽道的な要素を政治に取り込んだのは天武天皇

その天武が整理したのが伊勢の神宮の祭祀です。

そこに仕えていた三輪氏とも関わる賀茂氏が天地二つに分かれて

(度会氏の元の磯部氏は三輪氏に関連があると思います)、

地祀の賀茂氏が平安遷都の時にそれを持ち込み、

神宮を司る一族(中臣系である荒木田氏?)に成り代わろうとしたのでは?
という妄想は些かドリーミングでしょうか。

 

 

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上賀茂神社下鴨神社の創始が不明なので

鴨神社と鴨下神社とどちらが古いのかは判然としません。

 

鴨神社&鴨神社の祭神石己呂和居命は、

鴨比古・鴨比売と共に「水利灌漑の神」とされますが、

石己呂和居命の名から、磐座や石清水も髣髴とさせます。

また石といえば石上神社…

石上は三輪氏の大神神社と関係が深いですよね。

 

そもそも「いそのかみ」というワードは内宮を「いそのかみ」とも異称したのと絶対に関連がある、

と常々私は思っているのです。

(どこかでこのテーマについて書きたく、秘めていましたが)

 

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さてさて、鴨下神社にもどりましょう。

摂社末社のご多聞に漏れず、

こちらも戦国時代には荒廃していたといい、

明治7年(1874年)に津布良神社・大津神社とともに社殿が再興されたと言います。

案外最近ですね。

 

例の「禁殺生」の石碑についての考察です。

こちらの石碑がいつのもかは未確認ですが、

最も古くても明治7年になりますね。

例の石碑問題は、大先輩に情報をいただきましたので

また折に触れ考察していきたいです。

 

というわけで、

バックグラウンドが壮大な謎に絡む鴨下神社さん。

全ての道は伊勢に通ず?
伊勢の神宮の本当の起源は?

謎は深まるばかりですね。
(それが古代史の謎に繋がり、楽しい♪)

 

(2019年10月23日参拝)

 

 

 


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