伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【125社めぐり】 内宮 所管社 興玉神 ・ 宮比神 ・ 屋乃波比伎神

内宮 所管社 興玉神  (おきたまのかみ) 
同 所管社 宮比神  (みやびのかみ) 
同 所管社 屋乃波比伎神 (やのはひきのかみ)

 

所在地;内宮境内 正宮御垣内

 

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こちらの三柱の神は、その社の名も○○神社のようにはなく、

その御祭神の名のまま、祀られている神です。

 

内宮に鎮座しますが、直接に御参拝は出来ません。

なぜならば、アマテラス大神の坐します正宮の御垣の中に鎮座する神だからです。

 

その位置は以下の通り。

 

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屋乃波比伎神は正確には御垣ではなく、石段の横に坐しますが、

全く見ることはできません。

古殿地との間に坐すのかと推測。

 

また、石段を上るともう写真撮影はNGです。

ここからは内宮の最最神域です。

 

伊勢志摩サミットでの正宮前の写真は

石段の二段目に立ち、下からカメラマンが撮影しています。

(私も真似してそのアングを友人たちとよく撮ります)

 

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通常の御参拝は、

参道を通り、南蕃神を右手に左手の石段を上がります。

鳥居の立つ板垣を入り、外玉垣の前まで…が一般の御参拝。

 

御神楽を上げたり、初穂料を納めると

玉垣内にまで入っての参拝が出来ます。

(御垣内参拝ですね)

 

更に諸々の条件をクリアーしますと

更に御正殿に近付くことは出来ますが

興玉神宮比神の元へは行けません(多分)。

 

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↑は南蕃神ですが、北蕃神もほぼ同じ造りだと思われます。

その北から入って板垣の内に坐すのが、

興玉神宮比神

二柱は御同座とのこと。

祭事などが行われる際には神宮関係者が参拝を行うといいます。

 

興玉神については

「大宮所の地主神。

 正宮の北側、御垣内西北隅の石畳に石神として西向きにご鎮座される。

 同じ石畳に宮比神がご鎮座。

 御垣内なので一般には参拝できない。

 月次祭(つきなみさい・6月と12月)と神嘗祭では、

 まずこの神に奉仕員一同が、真心こめて大祭に奉仕することを祈念する。」

神宮会館HPにはあります。

 

宮比神

「大宮所守護の神。

 正宮の北側、御垣内西北隅の石畳に石神として北向きにご鎮座される。

 同じ石畳に興玉神がご鎮座。御垣内なので一般には参拝できない。」

と記載されています。

 

イメージとしては、瀧祭神のように

石の敷かれた四角い敷地(石畳)に

石座が2つ立っていて、

そのひとつが西を向く興玉神

もうひとつが北を向く宮比神という雰囲気なのでしょう。

瀧祭神のように板垣で囲われているかは不明ですね。

 

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興奮神は、正宮の守護神ともされています。


『神名秘書』によれば、

猿田彦大神またはその子孫である大田命の別名であるとも言われます。

 

鎌倉時代には宮域の地主神・猿田彦大神として興玉神を祀り、

神嘗祭月次祭の御贄供進の際に祭祀が行われ、重視されてきたとも言われますので

現在も祭祀の際にまずこちらにお祈りをするのはこの所以なのでしょう。

 

以前から「なぜ内宮のすぐそばの猿田彦神社は125社でないのか」と思っていたのですが、

興玉神猿田彦であれば、不思議はありません。

猿田彦神社は明治の創建ですが、倭姫宮は大正時代創建です)

一般にも猿田彦を御参りできる猿田彦神社が人気を集めたのもそのためかもしれませんね。

 

大田命は『倭姫命世記』によれば、

倭姫命が諸国を巡っていたとき、

猿田彦の子孫である大田命が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされています。

つまり、大田命が正宮の土地の主だったとしているのですね。

神宮会館のHPにある「地主神」ですね)

 

大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、

代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられ代々奉職したそうで、
その邸宅内の屋敷神として祀っていたのが祖神の猿田彦だといいます。

明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、

その屋敷神を改めて神社としたのが猿田彦神社の創始とされます。

 

興玉といえば、二見の興玉神社の御祭神も猿田彦ですね。

興玉神社には「興玉神石」という霊石があり、

猿田彦大神の化身とも、天孫降臨の際に猿田彦大神が立たれたとも伝わるそうです。

「興玉」とは、海中の神霊を意味する「澳魂」(おきたま)を意味するとも言います。

 

この石は宝暦年間に発生した地震により、海中に沈んしまい、

現在は肉眼で見る事は出来ないといいます。

大きさは東西216m×南北108mといいますから、大きな磐座のようですね。

 

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宮比神

猿田彦大神の妻である天鈿女命とも、

大宮売命(おおみやのめのみこと)ともいわれます。

天鈿女命説は上記の猿田彦の話から推して知るべし…といった感じですが、

大宮売命とはどんな神なのでしょう?

 

神祇官で祀られた天皇守護の八神のうちの一柱として、

朝廷で重視された女神であるといいます。

宮殿の人格化とも女官の神格化ともいわれ、君臣の間を取り持ち調和を図る神とされるそうです。

 

この性格からは、まさに!といった印象ですね。

 
古語拾遺』には太玉命の子として登場していて、

天岩戸から新殿に移った天照大神に侍女として仕えたとされ、

内侍が善言美詞を駆使して君臣の間を和らげるような働きをしたと記されているとのことです。

 

延喜式』の大殿祭(おおとのほがい)の祝詞には、

皇居に鎮座して親王や諸臣たちが過ちを犯すことなく

心安らかに仕えられるよう見守る神であるとされているそうです。

 

伏見稲荷大社をはじめとする日本各地の稲荷神社では

ウカノミタマなどの配神として祀られているそうで、

ウアカノミタマ―豊玉姫の関係から、これもまた気になるところではあります。

 

鎌倉時代の建久の年中行事の記録には、

内物忌父等が神饌を供する役目を担ったとあり、

このように内物忌父等が奉仕することや

御垣内の乾(北西)の方角にあることから

巽(南東)の方角にあり、

外物忌父らが奉仕する屋乃波比伎神と対照をなしていたとされます。

 

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屋乃波比伎神は上述のように、正宮と古殿地の間にあるらしく、

全く姿は見えません。

↑は古殿地前の様子ですが、この右手の林の中かと推察。

 

「神庭守護の神。

 石畳を構え石神としてまつられる。

 正宮石階の東側に南向きにご鎮座されるが、一般には参拝できない。」

神宮会館HPにありますので、

瀧祭神や興玉神宮比神と同じスタイルかと思われます。

(興味があるかたは瀧祭神を垣根から垣間見してみてください、こっそりと)

 

屋乃波比伎神は、スサノオの孫であるという説もあります。

古事記』にはスサノオの子・大年神の子の中に「波比伎神」(「矢乃波々岐神」とも)がいて、

屋乃波比伎神と同じ神であろうというのです。

 

この神は祈年祭祝詞に見え

一般に宅神(屋舎の内外を守護する神)とされます。

古来、宮中で神祇官の座摩(いかすり)の御巫の祭る皇神五座の一であり、

伊勢皇太神宮(内宮)所管の屋乃波比伎神または矢乃波々木ノ神と

神道大辞典』等の記述にあるそうです。

 

また「ははき」=「箒木」の神、清めの神とされたり

「母木」=女性の神で産神ともされるようです。

 

正宮の聖域を清浄に保つ女神…というイメージが沸いてきますね。

 

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以上、正宮に坐すものの、直接参拝は出来ない三柱の神について見て来ました。

参拝の折にはこの三神にも思いを馳せたくなりますね。

 

↑は無人の正宮前。

ちょっと貴重なショットです。

早朝参拝の折でしたので、まだ夜陰を帯びています。

(この記事の1枚目も同日同時撮影)

 

↓も貴重な一枚。

自衛隊の方々の参拝の様子です。

 

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一緒に参拝した知人の知人がいらしたのですが、

一日には自衛官の皆様は参拝にいらっしゃるそうなのです。

糸乱れぬ拍手の音にしびれました。

 

正宮を守る三神にも

日本を守る自衛官の皆様にも敬意を表したいですね。

そして正宮に坐しますアマテラス大神には日本を平和に守護してくださる感謝を捧げたいと思います。

 

 

(写真撮影;2018~19年)