【125社めぐり】 外宮 摂社 河原神社 ・ 末社 毛理神社
外宮 摂社 河原神社 (かわらじんじゃ)
御祭神 川神 (かわのかみ)
同 末社 毛理神社 (もりじんじゃ)
御祭神 木神 (きのかみ)
「ややこしいんじゃっ!」
と、千鳥のノブさんのテンションで突っ込みたくなります。
ここは、河原神社。
外宮摂社11位。
外宮摂社10位と12位には、
高河原神社と河原淵神社が。
更に内宮摂社には、川原神社が…。
更にこちらは「小社 川原大社」との記載も…。
外宮と宮川に濃厚な繋がりがあって、
神宮で再重要視している稲の実りは川の水の恵みは不可欠とはいえ…
あんまりです、神様(泣)。
それぞれの河原・川原の神様の鎮座地はそれぞれで、
高河原神社は月夜見宮境内に、
河原淵神社は池のそばに、
川原神社は水田地帯に、
そして、こちらの河原神社は住宅街にあります。
住宅街にこんもりとした摂社の森が見受けられます。
外宮の摂末社めぐりは住宅街から森を探すシチュエーションが度々あります。
(故に、自転車がオススメ!ただし車には要注意!!)
大きめの道路から近くで、チェーン店の激安御洋服屋サンもあったりしますが、
ちょうどこの河原神社さんを堺に水田地帯に入るような立地です。
境内の入口に立つと、「素敵!」と言いたくなってしまう、
木の枝のアーチが♪
明るい雰囲気に心和みます。
こちらの河原神社さんの御祭神はざっくりと「川の神」です。
固有名じゃないですよね、これは。
「田地守護の神で宮川下流の守り神」
と、神宮会館のHPの説明もざっくり。
同座の毛理神社に至っては
「木の神」。
説明も無し。
…あんまりでしょう?これは???
祭神が「川の神」とされますが
「川の神として伝えられ、倭姫命が定められた」
と一文説明があります。
【125めぐり】 摂社 大水神社 ・ 末社 川相神社 熊淵神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
…毛理神社どうしたの?
と思ってしまいます。
「もり」→「木」だと想像はつきますが…
せめて一言欲しいところです。
いや、これは逆に「説明できない=わからない」なのでは?
と穿ってしまいます。
ちなみに、
高河原神社の御祭神は、月夜見尊御魂、
(月夜見さんの境内に鎮座する所以)
【125社めぐり】 別宮 月夜見宮 ・ 摂社 高河原神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
川原神社も月読尊御魂、
(↑に倣った感があります)
【125社めぐり】 摂社 川原神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
河原淵神社は澤姫命(さわひめのみこと)で
水の神とされています。
(明日詳しく見て行きましょう)
河原神社は、伊勢市船江の檜尻川沿いの檜尻社が旧社地との説があります。
ですが江戸時代、檜尻社を河原淵神社の社地に比定して再興されます。
「河原神社は河原淵神社の北に鎮座する」と記された古書があったため、
檜尻社の北にある現社地に河原神社を再建されることとなったといいます。
檜尻社の祭神は不詳であったようです。
「河原神社の旧社地に鎮座していたことを受けて、
河原神社の祭神である川神を(檜尻社の)祭神とすることになった」
と『宇治山田史』に記載があるようですが、
河原神社の祭神の説明にはなってませんよね。
河原神社と河原淵神社と毛理神社は「三ッ社」と称されたと古書にあるそうです。
三社セットのような存在だったのでしょう。
それ故に鎮座地も戦国時代の騒乱を経て不明になり、
ごっちゃになってしまったのかもしれません。
御薗町新開の地には志賀井社があったとされ、
毛理神社の旧社地に比定されるそうです。
檜尻社と志賀井社は河原淵神社と同境内(船江上社)へ移されていて、
やはり三社は渾然一体となっています。
志賀井社の祭神は気長足姫命 (神功皇后)ともされますが、
これはどうやら船江上社に移ってからのようで
(船江社が八幡神として地元に信仰されたため)
元々の祭神は志賀井神とされ、どんな神様かは未詳です。
これはもう、純粋に
「御祭神もごっちゃになってよくわからなくなった」
以外の何物でもないように思われます。
檜尻社の名から、毛理神社の木の神は由来しているのかもしれませんし、
志賀神社は海の神様なので、ちょっ先の神社港との関係もあるのかもしれません。
(八幡様も海人族の神ですね)
木の神からは、昨日一昨日と出現した久久能智神も思い浮かびます。
そこからの着想もあったのかもしれません。
境内では、社殿を守るかのような楠も印象的で
こちらかも「木の神」を彷彿とさせますが…。
(余談ですが、佐賀の志賀神社に「三重津」の名が見え、
御神木の楠があるなど、ちょっとシンパシーを感じますね。
昨日、一昨日の考察からも
外宮は地元の人々がその地を守る神として産土を大事に祀ったバックグラウンドが強く、
特に疎かにされたわけではないのでしょうがその中に
摂社末社という神宮の祭祀が吸収されていったのではないでしょうか?
私は外宮神領に住まわせていただいておりましたが、
やはり産土の神様を最重要視していた様子を強く感じることができましたし、
産土の神社が生活の一部、町の一部となっているのを体感しました。
内宮の界隈の方が、神宮の祭祀色が強いようにも思われました。
入口の手水鉢(水盤)は今もしっかりと使われている様子が見受けられ、
この神社が地元の皆様に大事にされているのを感じました。
この水盤には「安永七年 十二月」の文字が。
1778年ですね。
こちらは寛文3年(1663年)に河邊精長(大中臣精長)がこの地に再興していますから
再興後の信仰の深さを伝えてくれています。
どんな神様でもいいんです。
この地にいる=この地の守り神なのですから…
という産土の信仰を感じる河原神社・毛理神社です。
(2019.10.09.参拝)