【125社めぐり】 別宮 倭姫宮
内宮 別宮 倭姫宮
御祭神 倭姫命
倭姫に関して考察した際にもざっくりと触れましたが、
(参考倭姫考察⑨人としての倭姫と神としての倭姫~倭姫陵と倭姫宮~ - 伊勢河崎ときどき古民家)
倭姫命を祀る別宮です。
その鎮座地を求めて大和(奈良)からこの伊勢国まで旅をしたとされています。
(詳しくはこちらで考察しています倭姫 カテゴリーの記事一覧 - 伊勢河崎ときどき古民家)
その倭姫命を祀ったのですが、125社で最も新しく明治に入っての遷座となっています。
「大きなご功績をお遺しになられた命の御徳をお慕いして、
大正の初年から神宮司庁と宇治山田市(現在の伊勢市)が命をまつるお宮の創建を請願してきましたが、
大正十年一月四日、皇大神宮別宮として倭姫宮のご創立が許可され、
同十二年十一月五日に御鎮座祭が執り行われました。
神宮には、別宮・摂社・末社・所管社の諸宮社があり、ご由緒は極めて古く、
奈良時代以前に遡るものが多いのですが、倭姫宮は、創立が極めて新しいのです。」
と、こちらの倭姫専門のHPにもありますように
「極めて新しい」のが倭姫宮の一番の特徴にも思われます。
その境内に入ると、私はいつも「城」を思い浮かべます。
突き当たって折れる道、長い石段…
そして境内は広大であるのに、所管社などはなく、倭姫命一柱のみがここに坐すのです。
さながら倭姫を護る宮であり、また倭姫のためのお城のようにも感じられるのです。
倭姫には「尾山御陵」と呼ばれる陵墓があります。
詳しくは
倭姫考察⑨人としての倭姫と神としての倭姫~倭姫陵と倭姫宮~ - 伊勢河崎ときどき古民家
で述べましたが、この御陵の上に元々あった「尾上社」で倭姫命は祀られていたのでは?
と私は思います。
ところが明治に諸々の合祀があり、そこに様々な神様が遷座してきてしまった。
そこで、お詫びと言っては何ですが、
この立派な倭姫宮を建てることにしたのではないかと思うのです。
尾上御陵は倭姫宮創建後の1928年(昭和3年)10月に
倭姫命御陵墓参考地に指定されています。
これもまた意味深ですよね。
また御陵の界隈は、明治に「倭町」と改名されたのですが、
ここにも「倭姫命は元々こちらに祀っていました」という地元民(神領民)の
倭姫への思いがあるのでは?と思わずにいられません。
そして倭姫宮の所在地も「尾山御陵の近くだから」という理由もあるようなのです。
倭姫宮のある倉田山は、神宮徴古館・農業館、美術館、神宮文庫等があり、
皇學館のキャンパスもここに隣接しています。
「倭姫文化の森」と神宮では総称しているほど文化に溢れた場所です。
↑倭姫宮の鳥居からは神宮文庫の黒門が見えます。
これは福島御塩焼太夫(徳川将軍家の御師)邸に慶長年間に建てられた門を移設したものです。
この移設は1935年(昭和10年)です。
1905年(明治38年)、神宮農業館(1886年建設)は山田からこの倉田山に移築され、
1919年(大正8年) に神宮皇學館(1882年創設)が内宮近くから移転、
それに伴い同年に神宮文庫(1907年竣工)も内宮近郊から移転しています。
これは1910年(明治43年)に竣工した御幸道路がこの倉田山を経由し、
それまでの外宮・内宮への道程が大きく変わったことに起因しています。
神宮に御参拝なさる道路の整備が問題とされて作られることとなったのですが、
これを機に倉田山は一気に文化の中心地になったのです。
倭姫宮は1887年(明治20年)頃より宇治山田町の神領民から倭姫命を祀る神社の創立の声が上がり、
1912年(大正元年)に国会に請願しています。
1919年(大正8年)に予算が可決され、1921年(大正10年)に内宮別宮としての創立が決定し、
1923年(大正12年)11月5日鎮座祭が執り行われました。
ですので、この倉田山ブームに乗ったとも言えますし、
もしかすると倭姫宮がここに建つことが前提だったプランかと
穿った見方をしてしまいたくなタイミングでもあります。
倭姫宮もまた、戦時中には爆撃にあっています。
ですが社殿は無事で、宿衛舎が燃えた被害で済んだそうです。
やはりここに倭姫御自身か天照大神の庇護による力が働いたのかも?と思わざるにいられません。
倭姫自身が実在されかの謎が残る皇女ではあります。
私は古代、天照大神の斎宮として仕えた皇女の総称ではないかとも思っているのですが、
神様として祀られているこの倭姫宮では、
古代の祭祀や近代の神領民の気持ちに思いを馳せて手を合わせたいと思います。