倭姫考察⑨人としての倭姫と神としての倭姫~倭姫陵と倭姫宮~
タイトルが「倭姫って何回言った?」みたいになってしまいましたが、
今日は倭姫が祀られている場所の数々にスポットを当ててみたいと思います。
まず伊勢で「倭姫が祀られている」といえば、こちらが思い浮かびます。
倭姫宮。
「神宮徴古館」や「農業館」、「神宮皇學館」など、文化の集まるエリア(倉田山)にありますし、
ガイドブックにも掲載されることが多いのでご存知の方は多いと思います。
こちらに、倭姫の御魂が祀られている…はずなのですが、
実は御陵(お墓)は別のところにあるのです。
それは、伊勢市倭町にある宇治山田陵墓参考地。
通称は「尾上御陵(おべごりょう)」、「倭姫命御陵」。
外宮と内宮の間の山に倭姫は眠っておられます。
皇族の陵墓を司る宮内庁では治定墓でなく参考地としていますが、
他の皇族陵墓とされる古墳と同じく立て札もあります(↓写真)。
伊勢では、伊勢の地で亡くなった倭姫はこの地にに埋葬されたと伝えられています。
私も友人に教えてもらい訪れましたが、それまでこの陵墓のことは知りませんでした。
(歴史好きな伊勢っ子はほぼ知ってる場所です)
遺跡名は「尾部古墳」で方墳のかたちをしていて、明治年間に発掘作業もされ、
須恵器や銅環、鈴が発掘したということです。
(この出土品は今どこにあるのでしょう?)
若干余談ですが、母の日葉酢媛は殉死をやめ、
初めて埴輪を埋葬に用いた皇族とされています。
(宮内庁が奈良・狹木之寺間陵と定めています。前方後円墳です)
もうひとつ余談としましては、
伊勢には前方後円墳は少なくほとんどが古墳時代後期のものですので
倭姫御陵も当時のこの地に則って方墳だったのでしょう。
さて、話を戻しましょう。
江戸時代の初期に書かれた『神風小名寄』・『太神宮神道或問』などでは
この尾上御陵を倭姫の御陵としているそうですので、
やはり地元では古くから「倭姫のお墓」と伝えられてきたのだと推察します。
皇女・倭姫は奈良の珠城宮(もしくは母の郷里の丹波)で生まれ、
アマテラス大神の御杖代となり、近江や伊賀を旅し、
伊勢で巫女として過ごして人生を終えた…ということになるのでしょう。
では、倭姫宮とは何でしょうか?
内宮の別宮でもある倭姫宮ですが、建立はとても新しく大正10年(1921年)です。
外宮のお膝元・宇治山田の民間から「偉大な倭姫命を祀る宮を創建すべし」との運動が起こり、
市長など行政を巻き込んでの嘆願が行われ、
帝国議会の承認を得て、1921年(大正10年)に創建となったそうです。
場所がこの倉田山にあるのは、「尾上御陵の近くだから」というのが一番の理由のようです。
地元でも疑問の声を時々聞きますが、
なぜ大正に入ってから倭姫宮を建てたのでしょう?
そもそもそれまでは倭姫の御魂は祀られてなかったのでしょうか?
アマテラス大神の御杖代を特別にお祀りしていなかったのは疑問ですよね。
昨日の記事で触れました、「元伊勢」とも言われます倭姫の巡幸地の神社では
アマテラス大神も祀ったのであろうというケースが多そうなのですが(私見です)、
倭姫命も共に祀られている神社も見られます。
実は、倭姫の御陵は山に入ってすぐ右手にありますが、
真っ直ぐ進みますと、神落萱神社と金比羅神社があります。
金比羅神社は往古金刀比羅大権現と呼ばれていたそうです。
元々は常明寺境内本堂の西南に東面して鎮座していて、神宮にも縁があったものの
明治の神仏分離令で、神宮界隈の古刹はほとんどが神領地から遷移させられ、
この常明寺も同様でした。
そこで金比羅神社に改まり、この地に移ったそうです。
それまで常明寺門前町といった町名も倭町と改め今の地名となっています。
神分離令がなされる前は、神宮界隈には寺社が多く、
金比羅神社という名にも神仏習合の慣わしの名残が感じられます。
金比羅権現は、大物主を本地とした見方が強いですので
ここでも御祭神に「大物主」の名が見られますね。
金比羅権現をスサノオ命ととらえる考えもありましたので、
そう考えますと伊勢の蘇民将来信仰とも繋がりそうですが…。
一方神落萱神社は、明治の神社合祀令により、箕曲中松原神社に合祀されたものの、
昭和22年に分祀し、旧社地に奉斎したそうです。
この時、同様に箕曲中松原神社に合祀されてた
神落萱社(草葦不合尊又は草野姫命)、
尾上社(倭姫命)、
同稲荷社(宇迦御魂神)、
同三輪社(三輪神)を分祀して、金刀比羅神社に合祀したと記録されています。
(参考;三重県神社庁教化委員会 » 金刀比羅神社・神落萱神社)
ここに「尾上社」(倭姫命)と出てくることに注目です。
つまり、少なくとも明治の頃には倭姫を祀る神社―尾上社が存在していたのです。
また、外宮宮司の記録からは
小さな祠が鎌倉時代には既にこの地にあったことが確認されています。
この小さな祠こそが、倭姫命の御魂を祀っていた尾上社だったのでは?
と、私は推測します。
神宮の礎を築いた皇女の御陵の上に神仏習合の神の社があることに
ずっと違和感があったのですが、これは後世の合祀のせいであって、
元々は倭姫のお体を山裾の御陵に
御魂を山頂の社にお祀りしたのだとしたら、とてもスッキリするのです。
倭姫宮建立を訴えた皆様も、このもやもやを抱えていたからこそ
倭姫の御魂を単体でお祀りすることを考えたのではないでしょうか?
その思いが、金比羅神社へ向かう沢山の鳥居に現れていると思います。
そして、やはり明治の悪法のひとつ神社合祀令。
この法は神祇官が神社を管轄しやすくしたことより、
村社などの形式を定めたせいでいくつもの神社が合祀されなくなり、
そこに伝わる文化や伝承も散り散りにしました悪行の方が大きいです。
南方熊楠も同じ紀伊半島から鎮守の森が数多く消え去ることへ警鐘を鳴らし続けました。
倭姫もまた、御陵からその様子を見守って悲しんでいたように思えてなりません。