伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【125社めぐり】別宮 月讀宮・月讀荒御魂宮 ・伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮

内宮 別宮 月讀宮 
        月讀荒御魂宮
        伊佐奈岐宮
        伊佐奈弥宮

 

御祭神 月讀尊 
      月讀荒御魂宮尊
      伊佐奈岐尊
      伊佐奈弥尊

 

所在地;三重県伊勢市中村町42-1

 

 

月讀宮は、内宮と五十鈴川駅の間、うっそうと茂った森が御神域です。

鳥居をくぐり、森の中を歩きくと、社殿が4つ並んでいます。

それぞれ、右から月読荒御魂宮、月読宮、伊佐奈岐宮伊佐奈弥宮となっています。

 

社殿が横に並んだスタイルは、明治に入ってからのものだそうで、

神宮HPには

「月読宮以下四別宮は

 『皇太神宮儀式帳』に「月読宮一院、正殿四区」と記され一囲いの瑞垣内に祀られていました。
 すなわち四宮あわせて月読宮と呼ばれており、
 伊佐奈岐宮伊佐奈弥宮宮号が宣下されたのは、第56代清和天皇貞観9年(867)8月のことです。
  第60代醍醐天皇の延長5年(927)に、古代の法律体系である『延喜太神宮式』が上奏されました。
 これによりますと、伊佐奈岐宮伊佐奈弥宮が瑞垣をめぐらした一院をなし、
 月読宮、月読荒御魂宮が一院を形成していました。
 現在のように、四宮それぞれが瑞垣をめぐらしたお姿になったのは、明治6年からです。」

と記載されています。

 

それぞれ御祭神は

月讀尊 、月讀荒御魂宮尊、伊佐奈岐尊、伊佐奈弥尊 です。

伊佐奈岐尊、伊佐奈弥尊は天照大神月讀尊の御両親。

では、月讀神とはどんな神様なのでしょうか?

 

古事記』では、伊佐奈岐尊が黄泉の国から戻り禊をした時に右目から誕生し、

「夜の食す国を治めよ」と言われたとされています。
天照大神はこの時に左目から誕生しています)

 

日本書紀』では、伊佐奈岐尊と伊佐奈弥尊の子とされ(天照大神と同様)、

「日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日とならんで支配すべき存在とした」と記されていますが、

異伝には、伊弉諾尊が左の手にした白銅鏡から天照大神を生み、右の手の白銅鏡から月読命を生んだとあります。

また「滄海原の潮の八百重を治めよ」と命じられたとも言われます。

 

その後、月讀神はどうなったかという記載は『古事記』にはなく、

日本書紀』にも数箇所でしか姿を現しません。

そのエピソードの1つが保食神に会いに行くよう命じられた話です。

保食神が自分をもてなすために口から飯を出したのを見て「けがらわしい」と月讀神は怒り、

保食神を刺殺してしまいます。

これは穀物の起源譚と、怒った天照との別離―日夜別離譚として語られています。

 

ただ『古事記』ではほぼ同様の話が大気都比売神須佐之男命の話として伝えられています。

また、有名な天照大神の岩戸の話へと繋がる暴挙の話も連想させられます。

神話によっては須佐之男命は「夜の食国を治めよ」とされていたり「海原を治めるように」とされていたりと

この点でも月讀神とかぶっています。

 

それ故に「月讀=須佐之男」説や「月讀不実在説」などもあるのですが、

私は逆に出雲神話との摺り合わせのために須佐之男という神が後から作られたような気がしているのです。

 

さて、話を戻して月讀神ですが

不思議なのは同神として外宮にも「月夜見宮」があることです。

こちらは和魂と荒魂を一緒にお祀りしています。

 

そもそもなぜ月讀だけが天照と同様に和魂と荒魂を分けられているのか?
これは天照と同様に尊い神とされているからでしょう。

姉弟とされていますから納得なのですが、では須佐之男は?となります。

伊勢では祀られていませんよね。天照の機嫌を損ねたのは月読も同様のはずなのに。
(やはりスサノオ=仮託だと思ってしまうのです)

 

また「月讀」と「月夜見」、なぜ表記が違うのでしょう?

月讀は、月夜見の他に「月弓尊」とも表されます。

これはギリシア神話などにも見受けられます、月と弓の関係と同じ三日月の形からの連想だと思います。
(弓張月という言葉がありますよね)

 

では「読み」とは?

これは「月を読む」つまり暦を表したのだと思います。

古来、暦を表せるのは権力者の証でもありました。

天智天皇は漏刻台(水時計)を作り時を支配し、

天武天皇は星の動きを観察していたと言われますし、

平安時代に入っても暦は天皇のみが支配できるものでした。

 

「月読」と「月夜見」は別の神様だと思うのです。

 

神宮HPには

「ご祭神は月読尊。天照大御神の弟神で外宮別宮 月夜見宮のご祭神と同じです。

 「月を読む」と記すとおり、月の 満ち欠けを教え暦を司る神であることを意味します。」

とありますが、なぜ表記が違うかの記載がありません。

 

確かに「月を見る」ことは暦を知ることにつながります。

ですが、『万葉集』には

「海原の 道遠みかも 月讀の 明(ひかり)少なき 夜は更けにつつ」(巻七・1075)

と、海と関係した歌がいくつか出て来ます。

月の光夜の海には欠かせない灯台でもありました。

ここから「夜と海を治める」につながります。

 

同じく万葉集には

「天に座す 月讀壮士 幣(まひ)はせむ 今夜の長さ 五百夜継ぎこそ」(巻六・985)

と、月讀を「月讀壮士」と表した歌もあります。

こちからは「夜の長さ=暦」を連想しています。

 

月を見る=明かり

月を読む=暦

この感覚の相違がこの時代に既にあったのだとわかります。

このことからも、月讀と月夜見は別の神として見られていたのではないでしょうか?

 

そして、日月別離譚からもわかるように、月讀神には荒々しい面もあったので

荒魂を分けたのではないでしょうか?

 

今私達が感じる「静かな月の神」は「月夜見神」なのでは?と思うのです。

 

月読宮といえば、もうひとつ。
お堀のような川、西側のうねった道からは「城」をいつも連想します。

東側(駅側)の森の中の道は、京都の下賀茂神社糺の森にも近しい雰囲気です。

「和」と「荒」の二つの月読をここからも感じられます。

 

御参拝の和際には魂、荒魂、の順を奨められていますの天照大神と同じです。