【志摩・一宮】伊射波神社①~歴史考察編~
先だってゴージャスな例祭についてお話しした伊射波神社さん。
今日はその歴史について見ていきたいと思います。
鳥羽市安楽島町加布良古崎の先端に建つことから、
地元では「かぶらこさん」の愛称で親しまれています。
「加布良古大明神」という異名も持つそうです(神仏習合の名残ですね)。
境内に向かう途中に出会える美しい志摩の海岸は
氏子さんたちが清掃活動をしていらっしゃいます。
「日本一参拝が困難な一宮」と呼ばれるだけあって(地元情報なので真偽は謎)、
山道を登り、フィニッシュは石段です。
(石段と並行してスロープもありますが、逆に下りは膝に来ます)
また、この加布良古崎の地へも車以外での到達が若干不便です。
かもめバス「安楽島方面行き」の終点「安楽島」が最寄りのバス停ですが、
発着数が少ないのでご注意を。
更に鳥居まで徒歩約30分くらいかかります。
この海に向かって立つ鳥居は、
昭和初期までは海岸まで船で来て参拝した名残だといわれています。
創建は1500~1600年ほど前だと推測されています。
御祭神の稚日女尊を海の道から加布良古崎へ祭祀したのが起源といわれ、
『延喜式神明帳』には「答志郡粟島坐伊射波神社」と記載があります。
また建久3年(1192年)、皇太神宮年中行事には「加布良古の明神」との記載も。
『外宮旧神楽歌』には
「志摩国知久利が浜におわします悪止・赤崎・悪止九所のみまえには、
あまたの船こそ浮かんだれ、艫には赤碕のり玉う。
舳先には大明神(加布良古神)のり玉う。
加布良古の外峰に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし、
加布良古の沖の汐ひかば、都へなびけ、我も靡かん。
加布良古の大明神にお遊びの上分を参らする請玉の宝殿」
とあります。
(参考;【( 125社めぐり】 外宮 末社 赤崎神社 - 伊勢河崎ときどき古民家)
御祭神は、
稚日女尊、
伊佐波登美尊、
玉柱屋姫命、
狭依姫命。
稚日女尊はアマテラス大神が岩戸に隠れるきっかけとなった、
スサノオの暴挙で亡くなった神様です。
(斎服殿で神衣を織っていたとき、スサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだため、稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭で身体を傷つけて亡くなった)
「尾田(現、三重県鳥羽市の加布良古の古名)の吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟嶋= 安楽島)に居る神」
として現れた神が稚日女尊であるとされています。
そしてこのとき神が坐しましていたのが、この伊射波神社なのです。
(その後、稚日女尊は神戸の生田の宮に移ります。
神功皇后の三韓外征の帰途、難波へ向おうとしたが船が真直に進めなくなったため、武庫の港(神戸港)に還って占いを行ったところ、稚日女尊が現れられ「私は活田長峡国にいたい」と神宣があったので、海上五十狭茅に祭らせたとあり、これが今日の生田神社であるといいます。)
幼名であるとも言われ(生田神社では幼名と説明している)、
妹神や御子神であるとも言われています。
御祭神の水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が
(余談;水銀鉱床の神である丹生都比賣大神といえば、
多気町の丹生神社も彷彿とさせますね。
水銀は不老不死や若返りの妙薬ともされていましたし、
何か関係があるかもしれません)
伊佐波登美尊は『倭姫命世記』によれば、
倭姫命が皇大神宮の朝夕の御贄を奉る地を探して志摩国を訪れたとき、
この神が出迎えたとしています。
安楽島の二地の鳥羽贄遺跡がこの神の本宮跡で、平安時代後期に現在地へ移ったと言われます。(『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』)
玉柱屋姫命は、伊雑宮の『御鎮座本縁』などでは天叢雲命の裔、伊勢国造の祖・天日別命の子であるとされています。
伊佐波登美命の妃神と解説する本もあります。(前出)
狭依姫命は、宗像三女神の1柱市杵島姫命の別名とされています。
近くの長藻地と言う島に祀られていたそうですが、
島が水没したので当社に合祀されたと言われています。(前出)
女性の神様が多いせいでしょうか、
御神威は、縁結び・夫婦和合・海上安全・大漁祈願・五穀豊穣・合格祈願・病気平癒(特に女性)
とされています。
この加布良古崎には、更にもう一柱の神様が祀られています。
それは、領有神(うしはくのかみ)です。
稚日女尊らが祀られる正殿のそのまた先、
神社で神木とされることも多いナギの木も見られる森の中を行き、
先端の岬に鎮座します。
(写真はないですが、お社もあります)
うしはくとは、神道における古語で「支配する、領知する」という意味を表します。
漢字で書けば、「領(うしは)く」となります。
神の力を表す「大人(うし)」と、身につける意味の「佩(は)く」が語源になっていると言われ、
「うしはく」は神々に対して用い、「しらす」は主に皇室に対して用いられる言葉です。
「うしはくのかみ」聞いたことあるな…と、国文畑出身・万葉集の時代専攻の私は思ったのですが、その場ではどうしても思いませず…。
後々調べてみたところ、万葉集に6例あるそうです。
特にそのうちのひとつが、
「住吉の 現人神(あらひとがみ) 船舳(ふなのへ)に うしはきたまひ」6-1020
と、船の舳先に人身で現れています。
これは前述した『外宮旧神楽歌』の
「舳先には大明神(加布良古神)のり玉う。」
と見事に合致していますね。
またうしはくの神は海以外にも山にも登場しています。
日本書紀では、天つ神が国つ神に対し
「おまえが領有する(=うしはける)葦原中国は、私の御子の支配する国だ」
とも言っています。
つまりうしはくの神は、その領主である神で、
加布良古岬―しいてはこの志摩の国を治めていた神なのでしょう。
↑のご由緒に見られる「宇志波那流神」は、
「うしはなる神」=「うしは・なる神」=「うしはくである神」
ではないでしょうか?
(漢字の当て方は奈良時代以降のような美しさですね)
今でもこの岬を通る漁師さんたちは
かぶらこさんに手を合わせると聞いたことがありますが、それも頷けます。