伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【伊勢神宮】外宮―豊受大神宮―創始のお話

前回は神宮内宮の創始についてお話しました。
今日は外宮の創始についてお話したいと思います。

 

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まず、伊勢神宮外宮の正式名称はご存知ですか?
豊受大神宮」といいます。

「豊受」というのはご祭神に因むもので、
そのご祭神の名は「豊受姫命」と言います。

漢字で書きますと…【豊受姫


ですが、ほかにもこのような表記をされることもあります。


【豊宇気毘売神・登由宇気神・等由気太神・止与宇可乃売神】


読み方も「とゆうけ」とされることもあり、
神社名も「とゆうけだいじんぐう」と読むこともあります。

 

神宮においてトヨウケヒメ天照大御神のお食事を司る御饌都神であり、
衣食住、産業の守り神とされています。

 

ところが、トヨウケヒメは実は伊勢出身の神様ではなく、
しかもこの地に鎮座ましましたのも、
内宮の遷座からおよそ500年近く経ってからだとされています。

どのような経緯で、トヨウケヒメはこの外宮にお越しになったのでしょうか?

 

それは、
雄略天皇22年(487年・皇紀1138年)のこととされています。

突如アマテラス大神が
「自分ひとりじゃ食事とかも面倒なんですけど~。
 身のまわりのことかしてくれる神、呼んできて~」と
天皇の夢に現れて語ったのです。

外宮の歴史を伝える『止由気宮儀式帳』『豊受皇太神御鎮座本紀』によりますと、
「一所のみ坐せば甚苦し」
「大御饌も安く聞食さず坐すが故に、
丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神、等由気大神を、我許もが」
とアマテラス大神はお告げになったと伝えています。

 

雄略天皇はこのお告げの通り、等由気大神を丹波国からお呼びになり、
度会の山田原に立派な宮殿を建て、祭祀を始めらた、といいます。

 

この度会の山田原が、現在の伊勢の宇治山田の辺り、
つまり外宮だと考えられています。

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なんと、トヨウケヒメの出身地は丹後・現在の京都府なのですね。

ではこのアマテラス大神からご指名を受けた豊受姫とはどんな神様なのでしょう。


古事記』では
伊邪那美命が火の神カグツチを生んで病に伏した後に生まれた神・
和久産巣日(わくむすび)の子とされています。
ワクムスビは五穀と蚕・桑を生んだ神といわれ、
トヨウケヒメも食物・穀物の神とされています。
(*ワクムスビは「日本書紀」ではカグツチの子とされています。)

 

ところが、このような話も伝わります。
丹後国風土記』に、
丹波郡比治の里の比治山にある真奈井で水浴びをしていた天女のうちの一人が
羽衣を隠され帰れなくなった
という、
いわゆる「羽衣伝説」が語られています。
そしてその天女こそが、
豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)であるというのです。

 

この伝説に登場する「眞名井」は、
丹後国風土記』に記されている奈具神社であるという説、
また同じく丹後にある籠神社(このじんじゃ)の奥宮の眞名井神社であるという説などがあります。

 

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そしてこの「眞名井」という名は
アマテラス大神とスサノオ命がうけい・誓約を交わした場所と同じです。
これもまた、いわくありげですよね。

(眞名井は井戸の美称で「美しい井戸」という意味だという説もありますが…)

 

なぜわざわざ丹波の国から豊受姫を招いたのか…
諸説ありますが、実は今なおはっきりとはわかっていないのです。

また外宮の創始についても国史である『日本書紀』や『古事記』にその記述はありません。
まさに、ミステリー。


ここからはちょっと神宮トリビアです。


外宮に上御井神社という場所があるのをご存じですか?
実はここは一般人は参拝ができない場所なのですが、
神様のお食事や神事につかう水を汲む、特別な井戸があるのです。
この井戸が先ほどお話しました眞名井と関係があるとされています。

この御井は忍穂井(おしほい)と称するそうで、

「古伝によると天孫降臨の際、
 高天原天忍穂の長井の水を、
 丹後国比治の真奈井を経て、
 豊受大神宮ご鎮座の折、
 この御井に移し奉ったもの」と神宮会館のHPで語られています。

また、天の井戸と繋がっているという伝承や、
アマテラス大神の孫で高天原からこの葦原の中つ国に降臨したというニニギ命が掘った
という伝承もあるそうです。



先ほどお話しました眞名井とされる丹後の国の籠神社の奥宮・真奈井神社には
このように伝わっています。

「この水は籠神社海部家(あまべけ)三代目の天村雲命が
 神々が使われる「天の眞名井の水」を黄金の鉢に入れ、
 天上より持ち降った御神水です。

 天村雲命はその水を初めに日向の高千穂の井戸に遷し、
 次に当社奥宮の眞名井原の地にある井戸に遷しました。

 その後、倭姫命によって伊勢神宮外宮にある
 上御井神社の井戸に遷されたと伝えられています。」

 

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倭姫の生きていたころにはまだ外宮はないはずなので、
色々と想像力を刺激される社伝ですよね。

 

天村雲命は、葦原中国の水質がよくないため,
天照大神の命をうけ,改良したという伝説もあります。

また、
外宮で代々神主を務めた度会氏の祖先神ともされています。

 

つまり、アマタラス大神とスサノオ命が誓約をした天の眞名井の水を
ニニギ命もしくは天村雲命が高天原から降臨するときに持って来て
降臨の地とされる日向の高千穂の井戸に移し、
更に丹波の眞名井に移し、
丹波から更に伊勢神宮・外宮の上御井に移した、ということになりますね。

 *天の眞名井の水とは、高天原の天忍石(あめのおしいわ)の長井の水である

  という説もあります。

  http://iselib.city.ise.mie.jp/images/furusato/2017nendo/18-1.pdf


天村雲命の子孫は丹波の眞名井も伊勢の上御井
どちらも代々守ってきたということにもなります。

(名前的には出雲とも関係が深そうな神ではありますが)

 

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更に、私が地元の方に教えてもらった伝承があります。
それは

「この上御井神社の水が枯れたら天変地異が起こる」

というものです。

御井神社の井戸の水は宮川が水源という説があります。
宮川は氾濫が多く水量が常にありますから、
これが枯れたとしたらまさに天変地異レベルの一大事です。


また、外宮内にある高倉山が水源…という説もあるようです。
高倉山のふもとにあたる山末神社からは水が涌き出ていますので、この説も有力ですね。

 

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御井に異変が生じた際は朝廷に使いを出し祈謝したとも言われるそうですが、
「未だ枯れたことはない」といわれています。

ただし、その万が一の時には
外宮のもうひとつの井戸・下御井神社の水をつかうことになっているそうです。

 

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『太神宮諸雑事記』(だいじんぐうしょぞうじき)に

 (*伊勢の神宮の,創建より平安末期までの主要事項を編年体で記した書。
  平安末期の撰,皇大神宮禰宜(ねぎ)荒木田一族の手で書きつがれてきた)

永承5年(1050年)に上御井の水が涸れ、土宮の前の水(下御井の水)を汲んだ

という記述が見られますが、これは定かではないとされています。


貞和五年(1349)に成立した『風雅和歌集』には

「世々を経て 汲むとも尽きじ 久方の 天より移す をしほ井の水 」
と読まれた歌が選ばれています。
この歌の作者は鎌倉末期から南北朝時代歌人であり度会姓を持つ外宮の権禰宜の度会延誠(のぶとも )です。
つまり、外宮の神官が「おしほいの水は代々枯れることはない」と唄っているのです。

 

ということは、やはり枯れたことはないのでしょうか?
それとも祈願の気持ちも込めて詠んだ歌なのでしょうか?

(この永承5年には天変地異はありませんが
 翌年に前九年の役が起きて
 武家の台頭と公家の衰退を招きます…
 公家から神宮への寄進が減る原因にはなっていきますね)

 

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また、出雲にも眞名井神社があります。
その東方に「真名井の滝」と呼ばれる滝があり、
この滝壺で汲まれた水は古来より出雲国造の神火相続式や新嘗祭の折に
用いられたとされるそうです。

眞名井、神事につかう水、と
外宮の上御井神社の水と共通点があることが興味深いですね。


伊勢と出雲のつながりについて、最近また気になってしまっています。

出雲の本も読み漁ったりしつつ…。

(出雲に友人がいるので、コロナ明けたらフィールドワークに出向きたいです!)

考えがまとまったらこのブログで発表しますねw

 

さて。

今日の内容もYOUTUBEでまとめています。
ご覧いただけましたらうれしいです。

 

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