伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【伊勢神宮】内宮―皇大神宮―創建のお話

今更ながらですが、

このブログで伊勢神宮の創始についてまだ書いていませんでした!

 

神宮の創始については異説が多く、

伊勢にいても色々な持論の方がいらして

謎の厚い厚いベールに包まれています。

まさにミステリー。

 

私もちょっとした持論はありますものの、

日本書紀』『古事記』に沿った一番スタンダードな説を

神宮ビギナーさん向けにまとめてみたいと思います。

(多分神宮の公式にも近いものだと思います。)

 

まず今日は内宮・皇大神宮のお話です。

 

f:id:itoshiya8ise:20200620084837j:plain


古事記』や『日本書紀』によると
皇大神宮の創始は「垂仁天皇25年」のことだとされています。
垂仁天皇25年というのは、紀元前5年にあたり、
初代神武天皇の御代をスタートとした皇紀では656年となります。
垂仁天皇は11代目の天皇です。

 

日本書紀』に

【離天照大神於豊耜入姫命。託于倭姫命
 爰倭姫命求鎮坐大神之処。而詣莵田篠幡。〈篠此云佐佐。〉
 更還之入近江国。東廻美濃到伊勢国。】

 

天照大神を豊鍬入姫命より離ちまつりて、
倭姫命(やまとひめのみこと)に託(つ)けたまふ。
ここに倭姫命、大神を鎮(しず)め坐(ま)させむ処を求めて、
菟田の筱幡(ささはた)に詣(いた)る。
さらに還りて近江国に入りて、
東のかた美濃を廻りて伊勢国に至る。


とあるのが伊勢神宮内宮の創始とされています。

 


初代の天皇である神武天皇はアマテラスの玄孫とされてることから、
アマテラスは天皇家の祖先の神=皇祖神とされているのは

皆さまご存知のことですよね。

 

アマテラスの御魂は八咫鏡に宿るとされています。
これは、アマテラスの孫であるニニギ命が高天原から降臨した時に
「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。」
とご自身の神霊を八咫鏡に込めたため…と『日本書紀』には記されています。

その後、八咫鏡は代々、天皇によって宮中で祀られることとなっておりました。

 

ところが、
神武天皇から数えて10代目の崇神天皇の御代、異変が起こります。

崇神天皇5年のこと、疫病が流行り沢山の民が死んだのです。
更に翌年にも百姓が逃散したりと良くないことが続いたため、
崇神天皇はそれらを鎮めようとします。

日本書紀』「には

【(祟神)六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。
  是以、晨興夕惕、請罪神祇。
  先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之内。
  然畏其神勢、共住不安。
  故、以天照大神、託豐鍬入姫命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。
  神籬、此云比莽呂岐。
  亦以日本大國魂神、託渟名城入姫命令祭、然渟名城入姫、髮落體痩而不能祭。】


お百姓さんが村から逃げ出したり、悪いことが重なるので
占ったところ、アマテラスと倭大国魂神を並立して
宮中で天皇が祀ってるのがいけないと出た。
そこで、アマテラスを豊鍬入姫に託して、笠縫邑で祀らせることにした。
倭大国魂神は渟名城入姫命に託そうとしたが、

姫の髪の毛が抜け落ちたりして祀れなかった。

とあります。

 

ここに倭大国魂神も登場していますが、
今はアマテラス大神に焦点を絞りますね。

 

これは、
来宮中に祀られていたアマテラスを皇居の外に移すこととし、
豊鍬入姫命に託し、

大和の国(現在の奈良県)の笠縫邑に祀らせたと記されているのです。

つまり豊鍬入姫にアマテラスの御魂の宿る八咫鏡を託し、
宮中から離れた大和の笠縫邑で祀るようにしたのです。


豊鍬入姫は崇神天皇の皇女です。
崇神天皇は自らの娘にアマテラスを祀らせたのですね。

(それ故に、豊鍬入姫が斎宮のはじまりとする説もあります。)

 

そして、その後を継いだのがヤマトヒメです。

ヤマトヒメは垂仁天皇の皇女で、トヨスキイリヒメとは伯母・姪の関係にあたります。

トヨスキイリヒメがアマテラス祀っていたカサノヌイムラは神籬(ひもろぎ)、
つまり臨時の社、仮の社のようなものでした。
そこでヤマトヒメはアマテラス大神の御杖代となり、

正式に鎮座する場所を探す旅に出ます。
御杖代とはその名の通り、旅の供であり、アマテラス大神の依り代です。

ヒメミコの旅ですからお一人でアマテラス大神の御魂と旅をしたのではなく、
もちろんお供も伴ってのものとなります。


延暦二十三年(804)に伊勢大神宮が神宮の儀式などをまとめて太政官に提出した
延暦儀式帳』の阿紀(あき)神社の項には以下のようにあります。

 

 【次の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)にて
  天下をお治めになった活目天皇(いくめのすめらみこと。垂仁天皇)の御世、
  倭姫内親王を御杖代(みつゑしろ)とされ、いつき奉った。
  美和の御諸原に斎宮を造り、おいでになってお祭りを始められた。
  その時倭姫内親王は、大神を頂き奉って、
  大神の願う国を求めて美和の御諸原を出発された。
  その時、御送駅使(はゆまつかひ)として、
  阿倍武渟川別命(あへのたけぬなかはわけのみこと)、
  和珥彦国葺命(わにのひこくにぶくのみこと)、
  中臣大鹿嶋命(なかとみのおほかしまのみこと)、
  物部十千根命(もののべのとちねのみこと)、
  大伴武日命(おほとものたけひのみこと)、
  合わせて五柱の命が使いとして同行した。
  その時、宇太の阿貴宮(あきのみや)に坐し、
  次に佐々波多宮(ささはたのみや)に坐した。
  この時、大倭国造(やまとのくにのみやつこ)らが

  神御田と神戸をたてまつった。】

 

(この御送駅使の面々がまた興味深い面子なのですが、

 その追及は後回しにします。)

 

鎌倉時代に記された『倭姫命世記』によりますと、

 大和国宇多秋宮(宇太阿貴宮)に遷り、四年間奉斎。
この時、倭国造は、采女 香刀比売(かとひめ)、地口・御田を進った。
大神が倭姫命の夢に現はれ「高天の原に坐して吾が見し国に、吾を坐せ奉れ」と諭し教へた。
倭姫命はここより東に向って乞ひ、うけひして言ふに、
「我が心ざして往く処、吉きこと有れば、未嫁夫童女に相(逢)へ」と祈祷して幸行した。
 すると佐々波多が門(菟田筏幡)に、童女が現はれ参上したので、
「汝は誰そ」と問ふと、
「やつかれは天見通命の孫、八佐加支刀部(やさかきとめ)〔一名は伊己呂比命(いころひのみこと)〕が児、
宇太乃大称奈(うだのおほねな)」と申上げた。
また「御共に従ひて仕へ奉らむや」と問へば「仕へ奉らむ」と申上げた。
そして御共に従って仕へ奉る童女を大物忌(おほものいみ)と定めて、
天の磐戸の鑰(かぎ)を領け賜はって、黒き心を無くして、丹き心を以ちて、清潔く斎慎み、
左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、
左に帰り右に廻る事も万事違ふ事なくして、太神に仕へ奉った。
元(はじめ)を元とし、本を本にする所縁である。
また弟大荒命も同じく仕へ奉った。宇多秋宮より幸行して、佐々波多宮に坐した。

 

この宇多秋宮と佐々波多宮はそれぞれ阿紀神社と篠畑神社とされています。


こうしてヤマトヒメは大和国から伊賀・近江・美濃・尾張と諸国を旅しますが、
なかなかアマテラスは「ここだ」と首を縦に振ってはくれません。
伊勢の国に入り、五十鈴川の川上に至ったときについに

 

【是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國】

 

この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。
傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ。

 

とようやくOKサインを下さります。

そう、そこが現在の伊勢神宮の内宮だとされているのです。

 

ヤマトヒメ的には
「長かった…なんでこんなに延々と旅させられたんだろ…。
 アマタラスめぇ、ワガママすぎやろ!?」
と恨み節の一つも言いたくなったに違いないほどに、この旅は長きにわたっていて、
立ち寄った場所には「元伊勢」と呼ばれる神社が数多く存在します。
この元伊勢のお話は以前にも触れましたので割愛いたします。

 

以上が大雑把ではありますが、

皇大神宮創始のお話です。

 

異説についてもまたの機会にまとめてお話してみたいなぁと思います♪

 

youtu.be