【古市街道】 自転車走破の道程② ~小田の橋→油屋跡~
さぁ、いよいよ出発です!
昨日も書きましたが、小田の橋からは上り坂です。
まずは急坂が現れ、その後もテニスコートの辺りまでは
ゆるやかながらも上りが続きます。
街道沿いには、っ現代風の住宅に混ざって古民家もまだまだ残っています。
造りは河崎の古民家とほぼ同じものが多いです。
屋根は反り型のものが多いように見受けられます。
古民家以外のお宅でも「古市街道」の旗がひらめき、
この街道筋への矜持が伺えます。
車自転車での道行は、正直、まわりを堪能するにはつらいものがありました。
(やはり往古に倣って徒歩がオススメです。)
ですので、今日の写真はまたもやgoogle mapから拝借しております。
さて、古市の地図をご覧ください。
前半の見所はどこも「跡」のみで、
石碑が立ち、昔を偲ばせています。
、正直、自転車のペースでは気をつけていてもうっかり見逃してしまいました。
…はい、そのくらいひっそりと立っているのです。
見落としてそれぞしまわないためにも、
それぞれの石碑と歴史を見ていってみましょう。
①お杉お玉興行碑
石碑には「間の山 お杉 お玉」とあります。
お杉お玉とは、女性三味線芸子です。
人気を博し、小屋を建て、川柳にも歌われるほどでした。
その人気の秘密は、客の投げ銭を演奏しながらかわすという芸によるもの。
途中中断もあったものの、江戸~大正までその興行は続いたといい、
お杉お玉も複数いたそうですので、個人名から興業名のようになっていたのでしょう。
間の山とは当地尾部坂の異名(古名?)です。
②備前屋跡
江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊郭のひとつに数えられた古市の
更に三大妓楼のひとつ。
古市は夜のお相手だけではなく、
昼間は女性も楽しめる踊り(ショー)も興業し、参宮客をおもてなしっしていました。
備前屋は別名「桜花楼」とも言われ、大広間の「桜の間」で
亀の子踊り(伊勢音頭の総踊りで有名でした。
「古市」を検索してみると、華やかな舞台で踊る舞子さんたちの姿の絵をよく目にしますね。
(よかったら検索してみてくださいね)
③油屋跡
こちらも古市三大妓楼のひとつ。
ですが「油屋騒動 」で有名ですね。
芝居『伊勢音頭恋寝刃 』で語られるストーリーを御存知の型もいらっしゃると思いますが、
そのような美しく面白いバックグラウンドが秘められていたわけではなく、
当地においては「乱心した医者が起こした恐怖の大殺戮事件」だったようで、
事件を起こした孫福斎が恋慕した相手?と言われたお紺さんが亡くなるまで、
伊勢ではこの芝居が興業されなかったといいます。
ちなみにこの孫福斎という人は、
鳥羽の百姓の出ながら鳥羽藩士の養子となり、
その後御師・孫福九大夫貞知の養子となります。
九太夫は斎を医者にさせるため京都に遊学させ、
斎が学業を修めると浦田町に家を与え、そこで開業させていたという人物です。
もしかするとその伝手で斎も遊郭に上がることができていたのかもしれませんね(妄想)。
油屋は明治には旅館として営業していましたが、
第二次大戦の戦火により消失。
油屋のあった場所は近鉄鳥羽線の線路を引くために切り崩されたので
今は線路の上の橋のたもとに石碑が立っています。
ここの橋は勿論近鉄線が見下ろせますし、
風情も面白いので、撮り鉄さんにも良いかもしれません。
さて、明日はこの続きを行きます!