【古市街道】 自転車走破の道程⑦ ~両宮常夜灯・富樫文治さんって誰だろう?~
さぁ、いよいよ古市街道の旅もラストスパートです!!!
桜木地蔵から古市街道に戻ると、
目の前にお寿司屋サンのある場所に出ます。
そこが古市街道です。
そのまま内宮方面に進みました。
しばらく進むと、常夜灯が見えてきます。
ただの常夜灯ではありません!
とにかくBIGなのです!!
建立年月はわからなかったのですが、
(石碑にあったのか?見落としました)
googole mapのクチコミによると、
40年ほど前には2.5キロのところにもう1ペア同じものが建っていたそうです。
私のイメージで「伊勢神宮=石灯篭の並ぶ姿」というのがありますが、
こちらも事故があったせいで撤去されています。
お伊勢さんの石灯籠見納め 死亡事故受け夏までに撤去:朝日新聞デジタル
ちょうど伊勢にご縁をいただいた頃の出来事でしたので、
河崎の町づくり衆の理事に話を聞いたところ
「あれ、案外新しいからね」
とあっけらかーんと言われて驚いたことがあります。
あの石灯篭も元々はこのイメージだったのでしょうか?
ちなみに、津の江戸橋にも伊勢への道標と共に常夜灯が立っていたそうで、
これは現在も残っているとのことです。(安永6(1777)年のもの)
さて、こちらの常夜灯には興味深い文字が…。
奉納したのは、東京神田旭町の富樫文治さんとのことですが、
管理者に「油屋」の文字が!
そう、あの古市三大妓楼の油屋です。
戦火で消失し、今は跡地の石碑をひっそりと残すのみですが、
この常夜灯が立った頃はまだまだ隆盛していたのですね。
往時の古市の姿をここでもひっそりと伝えてられていて
何だかムネアツです…。
ちなみに、このお江戸の富樫さんについても調べてみたところ…。
神田旭町と名前がついたのは、明治2年のことで、
今はその町名はなく、
内神田二丁目と三丁目(さんちょうめ)の一部となっているそうです。
旭町の由来は
慶長九年(1604年)から七十数年にわたり、
この辺りに江戸上屋敷があった佐竹藩の家紋に因んでいるそうです。
佐竹家は鎌倉時代の文治五年(1189年)、
家紋にも頼朝との逸話が秘められているそうです。
また、現在の内神田2丁目には旧「神田鎌倉町」も含まれているそうで、
ここにも鎌倉幕府繋がりの歴史を感じますね。
町名の由来は、
「鎌倉河岸」と呼ばれる荷揚げ場があったことに因るそうです。
みちくさ学会 : 幻の神田鎌倉町、神田旭町をさがせ!(旧町名さがしレポート) powered by ライブドアブログ
富樫文治氏とは、どんな人だったのかと言いますと…
検索をしてみると、小樽の日本銀行の請負人として名前が出てきました。
(日銀小樽支店…大好きな建物のひとつです。
設計は赤レンガの東京駅や日本銀行本店、国技館を手がけた辰野金吾氏。
東京駅も大好きです♪)
明治四十二年着工です。
更に浅草のシンボルタワーだった凌雲閣にも関係しているそうです!
滝大吉にまつわる凌雲閣伝説の検証 pdf(注68あたり参照)
更に調べてみますと、やはり建築界の大物だったようです。
「 『建築請負業界の偉人富樫文次』と、
1917年(大正6年)1月27日読売新聞の死亡記事にあります。
心臓病で1月24日に死去。「年六十四」ということなので、
伊勢の常夜燈を寄進したのは数えで61歳のときです。
富樫登和(妻)が富樫組を継ぎ、
養子の富樫厚博が内外エレベータの東京支店を兼ねることになった(?)ようです。」
常夜灯の建設は1915年、大正3~4年頃ということでしょうか?
その祝賀と関係があるのかもしれませんね。
去年の伊勢での令和大フィーバーを思い出します。
(あのGWは地元民も「こんなんはじめて」というくらいの人の多さでした!!)
きっと当時も天皇陛下の即位の礼を祝して大盛り上がりだったと思います。
もしかすると文治さんもその祝賀として常夜灯を奉納したのでは???
華やかかりし頃の古市の面影を思い浮かべつつ、
また自転車に戻ります。
さぁ、ついに古市街道の旅も次回でフィナーレです!!!