【125社めぐり】 末社 小社神社
内宮 末社 小社神社 (おごそじんじゃ)
御祭神 高水上命 (たかみなかみのみこと)
田丸駅エリアからは2キロほどでしょうか。
美しい水田地帯の中に、一区画だけ残された森…
それが小社神社です。
その姿に、「こもり」と読んで「ちいさな宮の森」
と言いたいところですが、
「おごそ」と読みます。
「小社曽根」という地名は「おごそそね」と読みます。
「曽根」とは河川の氾濫などで伸びた高地を意味し、
自然堤防を指すこともある言葉です。
この小社曽根に荒木田氏は本拠を置いていたといいます。
何となく「小社神社」って不思議な字面です。
(延喜式に記載のある神社を「小社」と総称しますし。)
元々はただ「小社」と呼ばれていたのかもしれません。
「○○社(神社)」と名付なくても「小社」といえば荒木田氏の社とわかる
という感じだったのでしょうか?
更に大元は「社」だったのかもしれません。
そして、神宮の神職となり、内宮の方に移り住んでから
神宮より小さい荒木田の社=小社になったのでは?
と想像を逞しくしてしまいます。
こちらの小社神社は、水田の真ん中にありますので、
ぐるりと周囲を一周歩くことが出来ます。
入口は、ここもまた印象的でした。
アーチのように一枝頭上を横切っています。
まるで木が自ら作った注連縄のよう。
わくわくしながら入ります。
社殿は多分、森の真ん中にあるのだと思います。
参道は右に折れ、社殿に向かいます。
ところで、「水田に残された森」と当然のように思えてしまっていますが、
この森は古代に社が決められたときには森だったのでしょうか?
もしかすると、古墳が今は森になっているように当時は木々は無かったのかも?
ふとそんな妄想をしてしまいました。
自然崇拝が原始信仰の我が国ですから
森の中に社、が正解だとは思うのですが、
それを「当然」と思ってしまっていたところに
日本の信仰の息吹が現代の私達にも息づいているのだな、
と、ちょっと感慨にふけってみました。
入口には「天保3年 壬辰 正月」の銘の入った水盤があります。
例の禁殺生の石柱の「享保甲辰」よりも100年近く時代は下って1832年です。
「三郷 若連中」と読めますので、
この辺りの3つの里の若い衆が奉納したのでしょうか?
江戸時代後期の信仰の深さを感じますね。
それにしても、200年近く経つのに
これだけ銘がくっきり残っているのは珍しい気がしますね。
御祭神の高水上命は「この土地の神で灌漑用水の神と伝えられる」
と神宮会館HPにあり、
「皇大神宮神主の荒木田氏が開拓した当時、産土神として尊んだ神である」
とも記載があります。
「この地方では「雨の宮」と呼んで、ひでりの折には雨乞祈願をしたといわれる」
(同HP)とも言われていますので、
ただの灌漑用水の神ではなく、高所からもたらされる水の恵みも司ったのでは?と思います。
【125社めぐり】 摂社 坂手国生神社 - 伊勢河崎ときどき古民家
にも記しましたが、
坂手国生神社にも祀られています。
坂手国生神社は溜池のそばの山にあり、
山(高所)からの水の恵みの神であると想像出来ます。
そして、こちらの小社神社は平地にあるので、
天(高所)からの雨の恵みがより重要視されたのではないでしょうか?
「高」水上という名からも「高」いところから来た水が
灌漑用水となり豊作へつながる…
そういった守護神だと私は思います。
また、大水上神とその子は国津神=その地の神とされていますから、
この地を本拠に度会(伊勢)地域を開墾した荒木田氏の氏神と同一化されたのだと思います。
荒木田氏は開墾のためにまず水脈を確保したはずですから
まさしく灌漑の神だと思うのです。
水田に水を引いた荒木田氏の神に
「水をお与えください」と雨乞いするのも妥当ですよね。
そして、水脈は土=山から平地にもたらされ、
川の流れへとなります。
その山を守るのが木々です。
山を尊び、
川の氾濫を畏れ、
木々へ感謝を捧げ、
水の恵みに豊穣の祈りを込める。
それが自然崇拝と稲作文明の融合した
125社の原始信仰の姿ではないかと思います。
それを「アマテラス大神」の御杖代となった「倭姫」が
「神宮」=「朝廷」の傘下として治めることが
「倭姫の分水の旅」として川に沿って旅する逸話となったのではないでしょうか?
さて、倭姫が定めたとされる社で
他の摂末社と同様に戦国時代に衰退します。
と思ってしまいますよね。
それは、戦国時代に武家勢力が伊勢にも侵攻して来ることに関係したようです。
戦国時代にここからほど近い田丸城は織田信雄の配下となったため、
戦乱に巻き込まれてしまうのです。
この頃、荒木田氏は内宮の鎮座する宇治へ移ったとされ、
小社神社は衰退してしまったと言います。
その後神宮末社として復興されたのは明治13年(1880年)です。
あの水盤の約50年後ですね。
水盤が残されていることから、信仰は続いていたのだと思いますが、
もしかすると、かつての小社神社はもっと広大だったのかもしれません。
末社の再興に関しては、江戸初期に再興された摂社と違い、
明治に入ってからとなっています。
「神宮では明治の初期、社殿が中絶した摂末社21社の再興を目指した。
先ず1874年(明治7年)、宇治山田神社・鴨下神社・津布良神社・大津神社の再興が実現した。
続いて1875年(明治8年)には5社の再興を教部大輔に願い出た。
この願い出は聞き届けられなかったが、
1880年(明治13年)に御塩殿神社の東西御倉の古材をもって
小社神社と葭原神社の社殿が造営された。
残る15社については再興されることはなかった。」
社殿の建替えに関しては、摂社同様に40年に一度、
それ以外は修繕、とされているようで
小社神社は2017年に遷宮されて、現在はご覧のように新しい社殿です。
↑写真は、度会・玉城の摂社末社めぐりにおつきあいいいただいたMさん。
伊勢のコアなツアーを企画開催しつつも、地元の歴の保全に努めてます。
美味しいみかん屋サンのHちゃんにもおつきあいいただきました♪
御二人とも本当にありがとう!!!
まだ内宮の摂社・末社で参拝していない神社もありますが
明日からは、外宮の摂社末社をご紹介&考察していきたいと思います。
(2019.10.23.参拝)