【125社めぐり】 末社 津布良神社
御祭神 津布良比古命 (つぶらひこのみこと)
津布良比賣命 (つぶらひめのみこと)
玉城エリアには摂社末社が集中しています。
ここ津布良神社は鴨神社の山の裾野の水田の中にあります。
田乃家神社とも近いです。
迷われる方も多いそうですが、
友人たちと共にするりと辿り着けました。
入口の手水石(水盤)には「漱水」の文字。
「漱ぐ(すすぐ)水」。
こう書かれると特別な水に感じます。
「文化十二年(1815年)」の銘があるそうです。
(現地では未確認)
翌1874年(明治7年)に
宇治山田神社・鴨下神社・大津神社とともに
社殿が再興されたと言いますので、
こちらには享保の禁殺生の石柱はなさそうです。
おや?でも水盤は江戸時代では?
そうなんです。
こちらは津布良神社が復興される前は、
八柱神社(八王子社)を氏神として地元の信仰を集めていたのです。
室町時代までは末社として祭祀が行われていた記録が確認できるものの、
戦国時代には衰退し、その地に八柱神社が氏神として建てられたようです。
その頃の水盤ということになりますね。
津布良神社は境内の入口側に辿り着かないと迷ってしまうようなのですが、
私達のようにすぐにガードレールのある入口が見つかれば迷いません。
境内も斜面に手すりがつけられ、迷うことなく進むことが出来ます。
そして、「漱水」の水盤のある石段のふもとにたどり着きます。
石段を上ると…
感嘆の声が出ない人はいないでしょう。
ここもまたリアル和製ラピュタの世界が広がります。
苔と木と石の世界。
異世界に迷い込んだくらいの唐突な光景に、辺りを見回し探検してしまいました。
ところで、
社殿には八王子社の面影はありませんよね。
明治に入ると神宮は、八柱神社を津布良神社に比定し、
津布良神社へ改称するよう求めたようです。
積良村の住民はこれに反発し、
八柱神社を津布良神社に改称するのであれば、境内にもう1つ社殿を建設し、その社殿を八柱神社として村に任せるよう主張したと言います。
新しく津布良神社の社殿を境内に建設することで交渉が妥結したそうです。
当の八柱神社はどこへ?となりますが、
なんと1907年(明治40年)に外城田神社(後の東外城田神社)へ合祀されてしまったのです。
神宮の勢力の元に追い出されてしまったかのような印象で、そこはかとなく寂しさを感じます。
八王子=スサノオの子ですから、アマテラス大神と同座させたくなかったのでしょうか?
ですが、このように地元民の間ではスサノオ信仰が根強いのを、伊勢にいると感じます。
地元の方の八王子社への深い信仰を伝えるのは、今はあの水盤のみになっているのですね。
御祭神の津布良比古命と津布良比賣命は
「この土地の守護神で田野の水の神二柱」
とされます(神宮会館HP)。
神社の森のすぐそばには灌漑用水もあるので、
まさに「田野の水の神」でその名からこの地を古くから守る神だと思われます。
『皇太神宮儀式帳』から倭姫命が津布良神社を定め、
御刀田(神田)を宛てたといういつものパターンが読み取れます。
境内は他の末社に比べて、かなりの広さです。
しかもあちこちに石積みをされていて、元々八柱神社だった…というよりも
まるで城跡のように感じてしまいます。
地名にも祭神にもある「つぶら」とは何なのでしょう?
「斎宮忌詞に墳墓を土群(つむら)と称しており、
この辺りを開拓した荒木田氏祖先の古墳も少なくなく、
古墳の多い地帯という意味で使われたようである。」
と神宮会館HPにあります。
若干歯切れが悪いですが、
このことからも荒木田氏とこの津布良神社は深い関係だと想像出来ますね。
荒木田氏…このブログでもちょいちょい名前を出していますが
荒木田氏とはどういった氏族なのか?
①この辺りを開拓した。(この辺りの有力者=豪族)
という二点は、当ブログでもさらっと述べています。
では、「禰宜」とは何でしょう?
伊勢神宮の宮司の下で、実際の祭祀や事務万般を取り扱うのが禰宜です。
荒木田氏は天見通命を祖とし、垂仁天皇が神宮を創祀したときから奉仕したと伝えられています。
つまり、有力氏族だったので神田を沢山献上し、垂仁天皇=倭姫に奉仕した…という感じですね。
そして、景行天皇の御代(ヤマトタケルの時代)に大貫連の姓を賜わり、
成務天皇の御代、神田開墾の功により新墾田の意味で荒木田神主の姓を賜わったといいます。
また、荒木田氏は中臣氏と同族であるとも言います。
言わずもがなの中臣氏の生業は神職ですね。
神宮の祭祀を司る役割を「祭主」といいます。
(神宮だけの特別な職で、古くは「祭官」と言ったそうです)
その最初が中臣御食子だとされているのです。
神宮を整備整理した天武天皇の時、
中納言意美麻呂(御食子の弟・国子の孫)が祭官を祭主と改め
その後意美麻呂の子孫が祭主に任命されるようになったそうです。
祭主は神祇官所属の伊勢神宮の神官の長であり、かつ全国神職の上に位したと言いますから
中臣氏の権力は相当なものですね。
(余談。この頃中臣出身の藤原不比等が権勢を振るい出しますから
政治と祭祀、両方のマツリゴトを中臣氏は掌握し出すのですね。
中臣、恐ろしい子!)
勅使(奉幣使・朝使)として伊勢に参向したものの通常は都にいて、
現地で実際に祭祀を行ったのが禰宜です。
禰宜には初め荒木田神主・根木神主・度会神主の三姓があったと言いますが、
外宮は度会氏が専ら奉仕するようになったとされます。
更に荒木田氏は一門と二門の2流に分かれ、
そこからまたいくつかの家に分かれたといいます。
それには内宮禰宜となれる家(重代家)と権禰宜となれる家(地下権任家)があるそうです。
明治初年までその世襲は続きます。
(参考→社家の姓氏-荒木田氏-
現在は祭主は中臣氏の世襲ではなく、
皇族または元皇族であることが条件とされ、
今は黒田清子さんがおつとめになられていますね。
ちなみに神宮の神職は独特で
祭主…神宮のみ。上記の通り
大宮司…祭主と同じく皇族か元皇族が任命される。
少宮司…神宮のみの役職
宮掌(くじょう)…見習いさん。神宮独自。定員あり
出仕…見習いさん
という格付けがなされていて、
神職を含めた職員は、
宮大工や衛士、宮務員、宮域林を守る林業作業員などなど
総勢で600人余りいるそうです。
さて、そんな荒木田氏と因縁の深い津布良神社ですが、
かつては荒木田氏を祀る「先祖祭」が行われていたと言います。
また神社の南にある3つの谷では「山宮祭」が行われ、
荒木田氏が神前に粢(しとぎ、米を水に浸して砕いた物)と木の芽の和え物を備えていたそうです。
この3つの谷の1つである積良谷には榊の大木を石で囲んだ祭壇が残っていて、
荒木田氏による祭祀は途絶えたものの、
地域住民によって4月3日に簡素化した祭が継続されているということです。
地元の皆さんの信仰の深さは今も祭祀に残っているのですね。
写真↑は摂社末社に時折見うけられる祭祀の場(と私は思っているのですが)です。
一段高く、ここだけ苔が生えていない様子にもその信仰の清廉さが伺えますね。
この津布良さんは今まで訪れた摂社末社の中でも特に気になる場所でした。
まさに「神秘的」としか言いようの無い神社です。
荒木田氏や地元信仰の深さ故だったのですね。
積み上げられた石も祭祀―そして信仰の証だとわかった
…ような気がしています。おこがましくも、ですが。
私は参拝後に色々調べながらこのブログを書いていまして
「そうだったのか」とそこでようやく理解することが多く、
書くことで学ばせていただいている感じです。
(2019.10.23.参拝)