伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【125社めぐり】 所管社 饗土橋姫神社

 内宮 所管社 饗土橋姫神 (あえどはしひめじんじゃ)

御祭神 宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)

三重県伊勢市宇治今在家町林崎

 

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今日も順番(別宮→摂社→末社→所管社・高位順)を違えて、

昨日ご案内の大水神社さん、一昨日の津長神社さんと同じ境内(領域)に鎮座する

饗土橋姫神社さんについて見ていきたいと思います。

 

こちらは内宮のロータリーからすぐに7社+αが鎮座しているのですが

駐車場の奥にあることから訪れる人も多くありません。

私も「125社めぐるぞ」と思う前に知人が案内してくれて知った場所です。

 

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饗土(あえど)とは、皇大神宮の宮域四方の境に悪しきものが入ってこないよう

防ぎお祀りする所のことを言うそうです。

字面から見ると、悪いものを饗応(おもてなし)して足止めしてしまおうという

悪霊をお祀りして封じてしまうのと似たマインドを感じますね。

 

御祭神はその名の通り、宇治橋を守護する神。

「橋姫」の名は山城国京都府宇治橋の橋姫明神(祭神;瀬織津姫)に倣ったものと

荒木田守良は『神宮典略』で説明しています。

 

この饗土橋姫神社の創建は詳らかではありませんが、

寛正7年(1467)三月の将軍足利義教参宮に併せ、饗土の地に橋姫神社が創建されたと

荒木田守良は同書に記しています。

饗土橋姫神社 - Wikipedia

 

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饗土橋姫神社の歴史は、そのまま宇治橋の歴史でもあります。
宇治橋がそもそも最初にいつ建てられたのかが不明なので、橋姫神社の創建も未詳なのです。

 

宇治橋は又の名を「御裳濯橋(みもすそばし)」と言います。

(この名は、五十鈴川を「御裳濯川」と呼んだことに由来します。)

日本の木造橋では一番長い101.8m、横幅8.4mの大きく立派な橋ですが、

古代はここには橋はなく、並べた石を渡っていたと考えられています。
(今も石を渡れる場所がありますね)

また、禊の意味を込めて川に入って渡ったという話もあります。

(今も五十鈴川で禊の儀式を行うのを目にします)

 

鎌倉時代に著わされた『皇太神宮年中行事』の津長神社の項に「橋」という言葉が初めて現れるものの、

室町時代に何度も流された記述があることから、今よりも低い橋であったと推測されています。

1452年前後に「勧進聖」と称する僧侶や尼僧が架橋の資金集めをはじめますが、

実際に今の姿に近い大橋が架けられたのはその後を継いだ聖によるもので

1464年(寛正5年)とされます。

 

ただ、他にも

将軍足利義教が寄進のうえ参宮した永享六年(1435)

という記録(『河崎氏年代記』)が最初とする説もあり

(神宮司庁発行みずがき第211号 宇治橋特集号、神宮宮掌音羽悟氏論述)

正確なところはわかっていないのが現状のようです。

 

どのみち、宇治橋にこの橋姫神社が祀られたのは1400年代中頃とみて良さそうです。

 

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現在は所管社であり、他の125社や神宮縁の神社と同じく神明造りですが、

創建当時の饗土橋姫神社は春日造りであったといいます。

春日造りといえばその名の通り奈良の春日大社が有名です。

春日大社といえば、水屋神社…国分けの話や今も続く神水の話を思い浮かべますが、

饗土橋姫神社のモデルが京都宇治の橋姫神社であるなら

当時の橋姫神社(京都)が春日造りでそれを真似たのかもしれません。
(京都の宇治橋も何度か流され、橋姫神社も移転しています)

また、京都から来参する将軍をお迎えするので京都・奈良風に仕立てたのかもしれません。

もしくは当時饗土橋姫神社を建てたのが京都・奈良の寺社の系列の氏族だったのか…?

(江戸以降は地元宇治の会合衆が管理していたそうです)

そこのところはミステリーです。

 

ただ、京都の橋姫神社は創建も古く(626年)、

「神は川の汚れを流すとされ、苦しみ、悪縁も消し去るとして信仰されてきたため、

 縁切りの神様として、悪縁を絶ち切ってくれるとお参りされる方も多い神社です。」

橋姫神社|宇治観光案内|京都宇治土産.com

と言いますから、

「悪いものを防ぐ」という「饗土」のマインドは共通していて

そこから「橋姫神社を宇治橋の守り神として建てよう」となったのだと思います。

 

宇治橋」の名も橋姫神社が逆由来になっているような気もしてきます。

(もともとは御裳濯橋だったのでは?)

 

饗土橋姫神社が神明造りになったのは、明治に入ってからとされますので

この地に遷座してからだと思われます。

 

最初の鎮座地は宇治橋の手前の袂、

現在鳥居の立つ地点から松の植え込みのある辺りであったそうで、

以前は、松ではなく二株の桜の木だったといいます。

御幸道路の建設に当たって、社地が道路と重なるため、

1909年(明治42年)3月に大水神社津長神社の中間に新社地を設けたそうです。

この頃か、明治初期の神社庁による諸々があった頃に神明造りになったのかと思われます。

(未詳です)

その後1969年(昭和44年)に造り替えた際にも社地が移動し現在の位置になったようです。

 

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↑旧社殿地はこの辺りですね。

冬至には日が宇治橋から上がるので、11月を過ぎると皆様カメラを構えるようになります。

 

元々は桜であったというのも、女性的です。

そういえば、京都の宇治橋は、丑の刻参りの起源とされたり

源氏物語』の橋姫の話など、女性が妄念を絶とうとするイメージです。

 

「内宮への入口、五十鈴川にかかる宇治橋は、

 日常の世界から神聖な世界を結ぶ架け橋といわれています。

 宇治橋の正面に立つ美しい大鳥居の姿を眺めると、すべての人々は心が洗われ、

 身も心も正して清浄な宮域に入る心構えの大切さを感じさせてくれます。」

宇治橋・五十鈴川|内宮(皇大神宮)|神宮について|伊勢神宮

と言いますから、

「饗土」のいう「悪しきもの」とは妄執や情念、人のどろどろとした気持ちのことなのだと思います。

 

橋は川で隔たった「境界」を渡すものですから…。

 

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神の世と人の世を繋ぐ宇治橋の架け替えは式年遷宮に先立って行われることは有名ですね。

その宇治橋の架け替えに先立って125社中最初に建て替えられるのがこの饗土橋姫神社です。

まず真っ先に遷宮することで、饗土を行い所謂悪霊祓いをするのだと思います。

 

新しい宇治橋を建設する際に行われる「宇治橋修造起工式」と

初めて新橋を渡る「宇治橋渡始式」に際してもこの饗土橋姫神社で祭事を行ます。

こちらも境界を悪いものが越えてこないようにというマインドがあると思います。

 

聖地に入るには、情念を捨てて覚悟をするべし、と言われているようです。

 

 

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さて。境界といえば、この饗土橋姫さんと境界を接してもうひとつの神社があります。

↑の3枚目の写真にも写っていましたので気になっている方もいらしたのでは?

 

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饗土橋姫さんと、大水さんの間の間を通ります。

明るい林が鬱蒼とした森の雰囲気になり、ドキドキします。

 

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その先にあるのが、尾崎行雄公を祭神とする合格神社です。

 

御由緒
世界平和と民主々義の実現に一生を捧げた尾崎行雄(咢堂翁)は

明治・大正・昭和の三代に亘り我國の政治に貢献した唯一人の名誉國会議員であり

又東京都名誉都民第一号でもあります。
この合格神社は”憲法の神”ともいわれた翁の著書

”人生の本舞台は常に将来にあり”の教本を御神体とすると共に、

伊勢神宮末社をもお祭した社です。
御祭神「咢堂翁」の志と人格を未来永劫の永きに亘って讃えると共に

翁を人間育成の努力目標とし、その成就を祈願する為この碑を建て後世に語り伝えるものです。

 

と、記念碑に書かれているそうです。

 

…私の乏しい近代史知識とこの碑文からは伊勢との関わりが見えてこないので

いつものWIKI先生で調べたところ、明治5~7年に宇治山田に住んで

宮崎文庫英学校に通っていたそうです。
なるほど、同じ神宮文庫の林崎文庫のそばに鎮座してもらったのですね。

 

その後伊勢にいた御父様の縁で、

明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙三重県選挙区より出馬し当選、

以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくり(これは世界記録)、

伊勢では投票用紙に「尾崎行雄」としか書いたことのない選挙人が

2代・3代にわたって少なくないとまで言われたそうです。

 

個人的に面白いなって感じましたのは

「明治・大正・昭和の三代」というワード。

宇治橋の渡り初めは「三代夫婦の揃った家の嫗(おうな)」が最初に渡ります。

その後も「供奉三夫婦(ぐぶのみふうふ)」という三代揃った夫婦が60組も渡るそうです。
(これはなぜか両国橋の渡初式に因んでいるとも言います。
宇治橋は神宮にとって「目新しいもの」なのか真似っこ多発ですね))

 

この符合、偶然にしてもちょっぴりオツですよね。

 

ちなみに、この合格神社さんですが、鳥居に渡された注連縄が結界に感じて

遥拝して帰りました。

参拝された方の写真を拝見すると、狛犬さんがいて

社殿前には尾崎行雄公の胸像もあるようです。

 

 

 

(写真2019年11月1日参拝時)

 


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