【125社めぐり】 摂社 朽羅神社
内宮 摂社 朽羅神社
御祭神 千依比賣命(ちよりひめのみこと)
千依比古命(ちよりひこのみこと)
田んぼの中に舞い降りたラピュタ城のようにぽっかりとそびえる森。
それが125社の中でも個性的なルックスで有名な朽羅神社です。
田んぼが黄金色に実る中の朽羅神社の森の姿は神秘的ですらあり、
ポスターやカレンダーにも掲載されることが多いです。
言うなれば、田んぼと摂社の代名詞ですね。
入口には「天保3年(1832)」の常夜燈が建てられています。
天保のおかげ参りが元年頃なので、その影響もあるのでしょうか?
(神宮や御師が潤ったから…というのは現代的な考え方かもしれませんけれど)
境内は広いです。
田んぼが広大なので、相対的に小さな森のようにも思えてしまいますが…。
正殿までの参道も美しく、可愛い手水鉢や大きな楠(?)の切り株など
神代のファンタジーを感じさせてくれます。
倭姫が定めた社だとされていますが、『皇大神宮儀式帳』には「朽羅神社」の名はありません。
千依比賣命を祭神としている「久麻良比神社」が朽羅神社であるとされています。
他の摂末と同様に、中世で祭祀が途切れたものの
江戸初期に現在のこの地に再興されています。
ただ、その所在地には異論もあります。
神社の名称の「朽羅」の意味にも諸説あり、
「くちら」とは「籠る」(こもる)という意味で、すなわち神の籠る森を指すとする説、
本来は「口原」であり、道の入り口を指すとする説などがあります。
読みに関しても「くちら」が一般的ではありますが、
「くたみ」とする史料もあります。
江戸後期の国学者・伴信友は、「くたみ」の音が「二見(ふたみ)」に似ていることから、
元々は二見に鎮座していた神社ではないかと解釈しています。
江戸時代には既に廃村となっていた旧原村の産土神が旧社地であるとしています。
個人的には地名の「原」から「朽原」が語源では?と推察します。
「久麻良比神社」を「くまらひ」と読み、
「らひ」が「ひら(比羅)(平)」→「原」となったとしても
「ひ」が欠落して「くまら」となったとしても、
「くま」が「くち」に訛化するのは無理があるように思います
江戸時代に既に廃村になっていたこの地を「くちはら」と呼んでいて、
そこに漢字が当てられたのでは?と思うのです。
…ただ平安時代の『延喜式』に「小社 朽羅神社」とありますので
この自説にが少々無理がありそうな…と自ら指摘しておきます。
御祭神の
千依比賣命(ちよりひめのみこと)と千依比古命(ちよりひこのみこと)は
農耕神であると、神宮会館HPにはあります。
ですが、『神名秘書』では祭神を水神とされていて、
雨の降らない日が続くと住民が鉦・太鼓・ほら貝を鳴らしながら
「アーメ、ターモレ、ターベーヨ」(雨賜もれ給べよ)と復唱した雨乞い信仰もあることから
土地よりも水に特化した農耕神ではないでしょうか?
水の力が強い神であるので、倭姫が創建したのかもしれません。
(私は倭姫が水脈の神を重要視していたと思っています。過去記事後参照ください♪)
『皇大神宮儀式帳』には「大歳神の子」と記載されていまして、
この二柱はどうやら夫婦ではなく姉と弟のようです。
大歳神の子は多く、昨日の記事の「加努弥神社」の「稲依姫命」もそうですね。
またその御神体は「石坐」とされています。(『皇大神宮儀式帳』による)
この朽羅神社は地元では「宮田森」と呼ばれるそうです。
宮(神宮)の田の中の森。
もしくは田の中の森のお宮さん、といったところでしょうか。
田―稲は伊勢神宮の要です。
その繋がりを身をもって感じることの出来る摂社です。
それにしても、このフォルムを保つ木の刈り方…
(他の摂末社もすですが)
これも代々育まれた伝統の技と言ってもいいと私思っています。
地元の皆様、すごいですよね。
刈ってるところに遭遇してみたいです。
朽羅さんは相対的に大迫力なだけに余計にそう思ってしまいます。
(2019年10月23日参拝)