【志摩・一宮】 伊射波神社③~2つの一宮~
さて、かぶらこさんこと伊射波神社は「志摩一宮」ですが、
志摩には一宮がもうひとつあります。
それは、神宮の別宮にもなっている伊雑宮です。
(参考;【125社めぐり】 別宮 伊雑宮 - 伊勢河崎ときどき古民家)
なぜ一宮がふたつあるのか?
そもそも一宮って何なの?
―今日はそこを考察してみたいと思います。
*今日の箸休め写真は全国一の難一宮といわれる、かぶらこさんの本殿までの道程です。
かぶらこさんに向かう気分でお楽しみくださいね。
御朱印帳を片手に全国一宮参拝をなさる方もいるようですが、
そもそも一宮って何でしょう阿?
一宮とは、律令で定められた国において最も社格の高いとされる神社のことを指します。
一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼び、
更に一部の国では四宮以下が定められていた事例もあります。
律令制において国司は任国内の諸社に神拝すると定められていて、
通説によると一宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると言われています。
律令制が崩壊してからも、その地域の第一の神社として一宮などの名称は使われ続けています。
現在ではすべての神社は平等とされてはいますが、
かつて一宮とされた神社のほとんどが「△△国一宮」を名乗っていますね。
(よくお正月になると「○○国一宮□□神社」というCMをご覧になると思います)
一宮の選定基準を規定した文献資料は無いようですが、
一宮には次のような一定の形式があるとされます。
1.原則的に令制国1国あたり1社。
2.祭神には国津神系統の神が多く、開拓神として土地と深いつながりを持ち、
地元民衆の篤い崇敬対象の神社から選定。
4.必ずしも神位の高きによらないで、小社もこれに与かっている。
(『「一宮」の選定とその背景』より)
また、諸国一宮が少なくとも次のようなそれぞれ次元を異にする3つの側面を持つともいいます。
1.氏人や神人などの特定の社会集団や地域社会にとっての守護神。
2.一国規模の領主層や民衆にとっての政治的守護神。
3.中世日本諸国にとっての国家的な守護神。
(『中世諸国一宮制研究の現状と課題』より)
(参考→一宮 - Wikipedia)
「一国に一社」とされていたのに、なぜ志摩には一宮がふたつあるのでしょう?
実は、他の律令国でも2社以上が一宮という名冠している例は割合多いのです。
その一覧は下記のようになります。
伊勢国
椿大神社
都波岐神社
二宮:多度大社
(三宮以下はなし)
遠江国
小国神社
事任八幡宮
二宮:鹿苑神社/二宮神社
(三宮以下はなし)
武蔵国
小野神社
氷川神社
三宮:氷川神社
四宮:秩父神社
五宮:金鑚神社
六宮:杉山神社
陸奥国
鹽竈神社
都都古和氣神社
都々古別神社
二宮:伊佐須美神社
(三宮以下はなし)
加賀国
白山比咩神社
石部神社
二宮:菅生石部神社
(三宮以下はなし)
越中国
気多神社
高瀬神社
射水神社
雄山神社
(二宮以下はなし)
越後国
彌彦神社
居多神社
天津神社
二宮:物部神社
(三宮:八海神社<所在不詳>)
但馬国
出石神社
粟鹿神社
二宮:粟鹿神社
三宮:水谷神社/養父神社
隠岐国
水若酢神社
由良比女神社
(二宮以下はなし)
紀伊国
日前神宮・國懸神宮
丹生都比売神社
伊太祁󠄀曽神社
(二宮以下は不詳)
阿波国
上一宮大粟神社
一宮神社
大麻比古神社
八倉比売神社
(二宮以下は不詳)
薩摩国
枚聞神社
新田神社
(二宮:加紫久利神社)
(三宮以下はなし)
そうです、2社なんてかわいいほうで、3社4社5社なんてところもあるのです。
では、なぜそのようなことになっているのでしょう?
山城国(京都)のように、下賀茂上賀茂と同系列の神社が定められてるのは
何となく事情は察せられますが、
その他の神社にはどんな背景があるのでしょう?
ひとつは領土の問題です。
越中国の場合、能登国を併合・分立しており、その際に一宮に変遷があったようです。
また相模国の場合は、7世紀の相武(さがむ)と師長(しなが、磯長)の合併により
相模国が成立した際、相武と師長のいずれの一宮を相模国一宮とするかで争いが起きたという例もあります。
(結果的に寒川神社が勝ったようですが。)
そのように一宮争いが起きた例も数々あり、
薩摩国においては一宮が未確定であったものの、
蒙古襲来に際し、一宮において「異国降伏祈祷」を行うよう鎌倉幕府から命じられたことをきっかけに、
新田神社と枚聞神社の間で薩摩国一宮相論が開始されたといいます。
(現在も両社とも一宮とされていますね)
権力者絡みでいいますと、
備前国では同国内で唯一の名神大社に列せられた安仁神社が一宮となるはずであったが、
天慶2年(939年)に起きた天慶の乱において
同社が藤原純友方に味方したため、
一宮の地位を朝廷から剥奪されたとされ、
備前国内に創建された吉備津彦神社に移ったと伝えられています。
このように一宮が変遷していった例は、
武蔵国の一宮、二宮、三宮にも見られます。
こちらは南北朝時代の文献と室町時代の文献で順位が入れ替わっているそうです。
では、我らがかぶらこさん・志摩国一宮では何があったのでしょう?
一説によると、
民社で同じ祭神の当社を一宮にすべき事情があったのでは?といいます。
(『日本の神々』より)
ん?同じ神様?
伊射波神社の御祭神に天照大神はいませんよね?
ですが、稚日女尊は天照大神(大日孁貴神(オオヒルメムチ))の幼名ではないかとする説があるので
これに因ったのでしょうか?
また同書においては、
もう1つの一宮をつくったのではないかという推測もなされています。
『志陽略誌』には
「倭論語云う志摩大明神と号す是なり。或人志摩国一宮と云う也。
(略)
往古社頭地あると雖も、戦国より以来之を亡失す」
とあります。
「志摩大明神」はかぶらこさんの別名です。
この本が出されたのは江戸時代末期、
文政6年(1823年)ですので、
この頃にはかぶらこさんは志摩一宮とされていたようですね。
ですが、伊雑宮こそが一宮であるという説もあります。
年出された『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、
1.『和名類聚抄』の例から「伊射波」は「伊雑」の万葉仮名と考えられること。
2.『大神宮本記帰正鈔』の「廿七年伊雑宮造立」の項に
志摩国司ノ管スル時ハ、伊射波神社ト社号ヲ以テセシト見エテ」とあり、
3.加布良古明神は古くは荒前神社と呼ばれたらしく、古代・中世の史料に伊射波神社の名がないこと。
4.明治7年(1874年)に薗田守宣が著した『伊射波神社考』に
「文化四年六月、城主(鳥羽城主稲垣長以)ノ沙汰トシテ、社ノ覆屋、拝殿・鳥居ヲ寄附シ、
神号ノ捜索アリテ、伊射波大明神ナル趣ヲ啓ス」とあり、
文化4年(1807年)から当社を伊射波神社と称したこと。
5.一宮は、一般に国府に近い大社とされる慣例だったが、
国府推定地である志摩郡阿児町国府から見て、伊雑宮の方が当社より近いこと。
私見ですが、ちょっと反証があります。
まず1と5はこじつけっぽいな、と。
1万葉仮名については慣例外の使用があまりにも多いので、論拠として薄いと思います。
5国府に近くない一宮もあるのと、あえていえば近いのはどうかと。
(特に数社乱立している場合。5はそれを度外視しているのでは?)
3また、神宮繋がりで考えますと…荒前神社は二見にある内宮摂社です。
それをどう捉えているのか?荒前神社が二社あったのか???
4「神号ノ捜索アリテ、伊射波大明神ナル趣ヲ啓ス」とあるのを、なぜこのとき号したととるのか?
(捜索って過去~現在において存在したものを見つけ出すことでは?)
志摩国司ノ管スル時ハ、伊射波神社ト社号ヲ以テセシト見エテ」
これも、神宮にとっての一宮は伊雑宮ってことにして、
国司(律令下においては)伊射波神社を一宮として号令しましょう、
という意味にもとれるのでは?
そもそも、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に「貞コ粟嶋坐伊射波神社二座 並 大」
とあり、粟島(あらしま)に伊射波神社が存在してますし、
伊射波神社の名前も江戸時代ではなく、平安時代にもうあるんですよね。
以上、反証でした。
私がかぶらこさんの関係者の方に聞いた話では
やはり一宮争い的なことはあったようなのですが、
何せ神宮にも関わることなので、皆さん口が重いです。
個人的には↑の反証2でした、
「神宮サイドには一宮は伊雑宮ってことにして、
律令国としては伊射波神社を一宮にしよう。」
というのが有力かと思います。
やはり神宮の御膝元といってもいい場所ですので
神宮への配慮もあったでしょうし、
でも律令下における一宮の役割を神宮の別宮でこなすのは難しかったため、
伊射波神社に白羽の矢が中てられたのではないでしょうか?
名前が似ていたのも選ばれた理由のひとつかもしれませんが、、、。
ところで「伊射波」って「いざなみ」って読めますよね。
そこに勝手なミステリーを妄想したくなってしまうのは、わたしだけでしょうか?