【熊野詣】⑥御師から考える熊野と伊勢の接点
数日前、当ブログ記事
でも触れましたが、
近世(江戸時代頃)には、伊勢の御師と熊野の御師は共闘状態にあったのでは?
と勝手に推測しております。
私的に考える根拠としては
という二点になります。
戦国時代、紀伊半島は戦国時代の騒乱で寺社の多くが深刻なダメージを受けています。
神宮125社の成立ちを追うと、戦国時代荒廃した神社が地元民により氏神として再出発し、
それを江戸時代初期に神宮の祭祀として再興し、現在の125社に繋がっています。
熊野の寺社もやはり戦国時代に荒廃したところが多々あります。
その背景には、実際の戦火もあるとは思いますが、
伊勢同様に、参拝者の減少が寺社経営に於いて大きな問題となったと思われます。
(戦国乱世のなかでは武将の戦勝祈願くらいしか参拝はなかったと推察します。)
その建て直し策として、神宮、熊野はもとより宇佐などの有力寺社が共同して参拝キャンペーンを打ち出していたようであることは、上記の記事にも書いた通りです。
特に、熊野と伊勢は同じ紀伊半島、とても近い距離で
どちらにも参拝するというルートを御師が提案することは容易です。
そこで「伊勢へ七度、熊野へ三度」といわれる伊勢熊野間の信仰の路を推すようになったのではないでしょうか。
それが、伊勢路です。
山伏(熊野先達・御師)の主力ルートであった紀伊路(中辺路)をそれまではメインルートとしてきたのが、
江戸期に入り、伊勢路を使う人々が増えたのも、そんな背景からではないでしょうか?
初代紀州藩主・徳川頼宣公が紀伊路・伊勢路を整備したのも、信仰心からだけではなく
熊野と伊勢の御師―熊野三山と神宮―の申し入れもあったかもしれません。
また、参拝客が増えることで藩が富むことも充分理解していたでしょうし…。
以上は私の全くの妄想的推測です。
熊野と伊勢の御師を結ぶ研究があまりなく、その証拠となるものに出会えずにいましたところ、
同朋大学の千枝先生から、浄土真宗の観点から見た熊野と伊勢御師の研究論文を送っていただきました。
「三重県総合博物館所蔵『谷家文書』所集の伊勢御師道者発券について
―中世紀州の宗教的(熊野・高野山・真宗)特質と伊勢御師の活動―」
「伊勢御師道者発券」とは、御師の財源である檀那との契約について記されたもので
そこには、御師が担当した檀那についての詳細が示されていて、
御師研究において重要な史料です。
千枝先生は214通以上もの伊勢御師道者発券を収集し研究されています。
以下、先生の論文から気になる点をご紹介します。
以上のことから、元来よく言われる「熊野御師と伊勢御師が険悪なライバル関係」であったならば、
伊勢御師が熊野地域で檀那を持つ=布教することは不可能だったと思うのです。
また、「真宗に改宗した際」の取り決めが丁寧に交わされているのも、お互いに共闘状態でなければ不必要ではないでしょうか?
やはり、戦国乱世を経人心を宗教へと回帰されるために
「まずは伊勢に行き、そして熊野に詣でましょう」という一大共闘キャンペーンをタッグを組んで行っていたのではないでしょうか?
そしてそのスポンサーが紀州藩だったのでは?と思うのです。
人々は戦乱の狂乱を経て、125社がそうであったように
神宮などの尊大な神々ではなく、地元の氏神様を大事に祀るようになっていたのかもしれません。
気持ちの問題もあったでしょうし、遠方への参拝旅が難しいこともあったと想像します。
(地域によっては戦火に巻き込まれかねないですから。特に紀伊半島は危険だったことでしょう。)
それを神宮や熊野のような大きな寺社に信仰心をまとめることは、人心掌握として藩にも利があったでしょうし、
上述したように経済的利点もあったと思います。
そして藩祖頼宣公が信仰心が深かったことも根底では関係していると思います。
(【禁殺生石の謎】 初代紀州藩主の禁殺生 - 伊勢河崎ときどき古民家など)
伊勢路が紀伊路よりも険しくなく、風光明媚な場所も多く通ることもこのキャンペーンには有利に働いたと思います。
むしろ、そのために整備した箇所もあると思います。
(未確認ですが、始神峠の江戸道などはそうではないでしょうか?)
そう、TDRスピリットと同じ・ゲスト(参拝客)を盛り上げる&飽きさせない精神ですね。
『東海道中膝栗毛』など、伊勢・熊野の旅が描かれものを見ると、
このキャンペーンは大成功だったといっていいですよね。
江戸時代以降に、伊勢のおかげまいりブームなどもありましたし、
熊野も伊勢も参拝客は増えています。
熊野と伊勢の御師が江戸時代の紀伊半島を盛り上げたことは確かだと思うのですが、
その共闘の証拠はあまりにも存在しないのは、
建前上「ライバル」としておきたかったからかもしれませんね。
(信仰上もあるでしょうし、その方が御師商売がしやすかったのかも?)