【熊野詣】③伊勢路と紀伊路
昨日、一昨日とさらっと説明に組み込んでしまいましたが、
熊野詣のルートには、大きく2つ
京都・大阪方面からのルートである紀伊路があります。
更に紀伊路は3つに別れていています。
また、山伏の修行道でもある吉野とつなぐルートもあります。
(↑ 熊野古道とは?:熊野入門より拝借)
まとめますと以下の通りです。
中世には紀伊中辺路がメインルートとされていました。
地域的な道とされていましたが、近世になると熊野参拝ルートとなります。
また、紀伊路の小辺路・大辺路も参拝道として使われるようになります。
この近世に伊勢路が参拝ルートとなる背景には
昨日ご紹介しました、戦国時代の熊野御師と伊勢御師の共闘作戦が背景になるのでは?
と個人的には勘ぐってしまいます。
戦国乱世で荒廃し、参拝客も減った寺社へまた人々を呼ぶために
「伊勢に行ったら熊野にも!」
「熊野から伊勢にも詣でれます!」
というような共闘キャンペーンを打ち立てたのでは?と思うのです。
(全くの妄想ですが。根拠は昨日の記事に…)
そのために、伊勢路を熊野参拝ルートとして
熊野御師が是認したのではないでしょうか?
元々は熊野御師とその先達は山伏です。
ですから、難路である紀伊中辺路がメインルートとされてきたのです。
参拝客に修験道を紹介(布教)したかったのですね。
それには、伊勢経由の比較的安易な道や、
その道中にある伊勢神道絡みの寺社や史跡は通したくなかったし、
案内する旨みも全くなかったことでしょう。
ぶっちゃけ、参拝客=お金を落としてくれる人ですから。
そしてあわよくば、自身の寺社に寄進もして欲しかったことでしょうし…。
それには、伊勢ルートは不用だったのです。
そして、修験道の素晴らしさを説くために、
修行僧が勤行する巨石や奇窟、巨木などの神仏の宿るものに擬えて
参詣道に「王子」を設定していったのだと思います。
総称して熊野九十九王子と呼ばれました。
「九十九」は「数が多いこと」を意味しています。
(九十九折…などと一緒ですね。)
1201年(建仁1)にはその数は61社に及んだといいます。
王子社は徭宮として設立し、霊験の宣伝も兼ねていたと思います。
イメージとしては、
TDRでアトラクション意外に設置してあるムードを高めるための建物やモニュメント的なものですね。
または、並んでいる最中に飽きさせない工夫と同じともいえるかもしれません。
また、王子社は参詣者の休憩所でもあったようですので、
TDRでいうならば、そのテーマにあった休憩スポットでもあったようです。
さて、
熊野までの道筋のイメージは湧きましたでしょうか?
は更に詳しく紀伊路と伊勢路についてご紹介していきたいと思います。