【熊野詣】⑦熊野参詣曼荼羅と熊野比丘尼
戦国期、一時は衰退しかけた熊野詣をまた盛んにさせた立役者が御師で、
というお話をしましたが、御師(&先達)以外にも
熊野隆盛を支えた立場の人たちがいます。
それが、熊野比丘尼です。
その組織と統制に服する僧形の女性聖職者(比丘尼)である。
熊野比丘尼は、熊野三山の造営・修復のための勧進にあたる勧進職としての職分を本寺より得て、
各地で貴庶から勧進奉加を募っては、
本寺へ送り届けることを務めとした。
熊野比丘尼が勧進奉加を募る手段は複数あったと考えられているが、
牛玉宝印や大黒札の配札と並んで代表的な手段であったのが、絵解きである。
絵解きとは、観衆に対して宗教的絵画を提示し、
説教・唱導を目的として、
絵画の内容を当意即妙な語りで説き明かす行為のことである。
宗教的な絵画とは、曼荼羅などのことです。
曼荼羅のほかには、涅槃図、八相図、個別の寺社にまつわる祖師・高僧伝、寺社縁起、参詣曼荼羅などが挙げられ、そこには仏教やその寺社にまつわる説話が描かれています。
皆さんもお寺などで、仏教の世界観を表した曼荼羅を目にしたり、
僧侶からその説明を受けたことがあったりすると思います。
曼荼羅はその美しさから掛け軸のような美術品として捉えられてしまいがちですが、
元来は仏教の世界をわかりやすく魅力的に説明するためのアイテムなのです。
↑は田辺市闘鶏神社所蔵の慶長元年(1596)の墨書銘の裏書のある熊野参詣曼荼羅です。
一番下に描かれた朱の鳥居から左上部の那智の本社、更に左最上部の妙法山までの道が描かれ、
那智の滝はもちろん、大門坂や境界となる橋、千手堂や奥の院などが描かれ、
更には平惟盛一行や和泉式部や花山院などの熊野に縁の有名人も登場しています。
詳しくはこちらのサイト様が絵解きの臨場感と共に解説してくださってます。
歴史と向き合う街とは 癒しの風景とは 那智参詣曼荼羅の物語世界
このように、熊野の信仰を魅力たっぷりに語り、
「熊野詣へ行きたい!」と人々に思ってもらえるよう
熊野比丘尼は絵解きをしてまわっていたのです。
では絵解きをするのが、なぜ先達(山伏)ではなく比丘尼なのでしょう?
地方を巡歴していた中世の巫女が熊野三山の修行に名を借り、
民間に熊野系の祈禱行為とともに熊野の神徳の絵解きを行ったのがはじまりのようです。
世界大百科事典 熊野比丘尼(クマノビクニ)とは - コトバンク
戦国乱世に荘園を失い、参詣者も減り、
経済基盤が揺るぎだした熊野三山の運営資金を集めるため
熊野比丘尼は諸国を巡り歩きまわったといいます。
熊野比丘尼は、毎年年末から正月にかけて熊野に年籠りし、
伊勢に詣でたあと、諸国を巡り、熊野信仰を布教し、
熊野牛玉宝印や梛の葉を配って、熊野三山への喜捨を集めたそうです。
(やはり伊勢とのタッグ感がありそうですね)
絵解きだけではなく、ささら(竹を細かく割って束ねて作った楽器)
を摺りながら歌念仏や流行唄をうたって人々を引き付けたので、のちに歌比丘尼とも呼ばれます。
江戸時代に入ると、「絵解」は宗教よりも大道芸の色が濃くなっていったようです。
歌比丘尼として小歌を歌う芸能者が主となり、
盛り場で売春を行う街娼となるものもいたそうです。
山伏を夫に持ち、小比丘尼たちに管理売春を行う「比丘尼屋」を江戸浅草に開く者もいたといいます。
井原西鶴は『世間胸算用』や『好色一代男』などに熊野比丘尼を登場させています。
ですが1780年代(天明年間)に入りますと、熊野比丘尼は姿を消していくようです。
(寛政の改革で風俗について厳しい政策が展開されたせいかと想像します。)
まぁ、そういった背景はさておいても、
参詣曼荼羅は当時の思想がよくわかり興味深い歴史の証人です。
「仏教とかよくわからないわぁ~、興味ないし~」という方も
いえ、そういう方こそ比丘尼の絵解きのための曼荼羅は面白く見ていただけるのでは?
と思います。
当時もそういう意図でつくられてますからね。
上記の参詣曼荼羅のほかにも、
熊野の仏教的世界観を表した
熊野には数多くの図画が遺されています。