HOW TO GO伊勢~昔のお伊勢参り~③抜け参り編
皆さんは「抜け参り」という言葉をご存知ですか?
もしくは、「お陰参り」ならばご知ってるぞという方は多いと思います。
昨日は御師の檀那や伊勢講によるゴージャスはお伊勢参りを中心に見てみましたが、
庶民が伊勢にほぼ路銭0で行ける方法があったのです。
それが「抜け参り」。
後に「お陰参り」とも言われたものです。
「一生に一度は行きたいお伊勢さん」的な一大伊勢ブームが江戸時代に到来したのは、
御師の営業活動の賜物であることは「御師のお話①~⑧」で述べて来ました。
「そうだ京都行こう」のCMを見て行きたくなるような感覚、それよりももっと強い羨望があったはずです。
どうしても行きたい。でも行けない。
町人や豪商豪農以外にはまだまだ遠い存在だったお伊勢さん。
でも行きたい!行ってやる!!!
そう思った人々が始めたのが「抜け参り」です。
昨日もお話しましたが、「神宮に行く」という名目があれば関所を通ることは緩かったのです。
ですが往来手形もなく「伊勢参拝ならOK」というくらいに更に緩んでいきます。
これには、江戸時代にほぼ60年周期でやってきた特大伊勢参りブームが関係していると思います。
もう当初は、関所破りに近かったのでは?と(笑)。
そこから「伊勢参拝なら仕方ない。手形なしでOK」となっていったのでは?と推察します。
そして、次第に「抜け参りなら仕方ない」の不文律が仕事にも適応されるようになります。
本来のお伊勢参りは「雪解けから田植えまで」が原則でしたが、抜け参りはそれすら無視して行われます。
逆に、仕事を放棄しての出奔に近いのです。
特に当初の抜け参りは、17歳以下の子供や女性が多かったようで
ストレスがたまりにたまって、夢のお伊勢さんへと逃亡したくなったのがきっかけでは?と思ってしまいます。
「もうこんな生活やってらんない!」と伊勢に向かった人々は路銭などほぼなかったことと思います。
それでも大多数の人々が伊勢に着けてしまった不思議…
そのからくりが、以前に「松坂の小津家」についてのお話にも出てきました、街道の人々による「施し」です。
伊勢へと続く街道の人々は、抜け参りの人たちに食事やお茶、宿泊場所、小銭などの施しをするようになります。
草鞋やお弁当などを提供する人もいたそうです。
伊勢講を思い出していただきたいのですが、選ばれた参拝者はその村の「代表者」。
祭りやパレードを行って盛大に送り出していたようですよね。
つまり、この代表者を出すことは村に伊勢神宮の功徳をもらうこと、なのです。
ですので、街道の人々も伊勢へ向かう人をもてなし、施しをすることは神宮への寄付と同じようなもので
御神徳のお裾分けをいただくような感覚だったのです。
特に小津家のような信心深い大店が毎日大盤振る舞いで
参拝者に食べ物やお茶を振舞っていた理由はこれだったのです。
この感覚は欧米のチャリティー精神と通じているところもありますね。
持つものが持たざるものへ与える行いは神の国に功徳を積むことなのです。
(小津家は菩提寺にも莫大な寄付をしています。)
「抜け参り」といえば「柄杓」を思い出す方も多いでしょう。
↑の外宮参道の柄杓童子の銅像を目にしたことがある方もいらっしゃると思います。
柄杓を持っていると抜け参りの目印とされた、という風潮は
どうやら明和(1700年代後半)頃からでは?と言われています。
同じ頃から「抜け参り」を「お陰参り」と呼ぶ風潮も生まれています。
この「抜け参り」の特大ブームはほぼ60年周期に起こっていまして、
明和8年(1771年)には300~ 400万人、
文政 13年(天保元年)(1830年)には500万人もの人たちが参宮したと言われています。
ちなみに、地元で「ものすごい人だ!」と目を白黒させていた昨年の令和元年のGWの10日間で
外宮・内宮合わせて88万2152人(前年39万6953人)の参拝客だったそうです。
(神宮発表。)
(どちらも参拝された方はどちらもカウントされていますので、実数はもっと少ないと思います)
人口が享保年間で2200万人だったと言われますから、
どれだけの熱狂的ブームだったのか想像の域を超えています。
この特大お陰参りのきっかけは「神札が天から降ってきた説」「御師の陰謀説」など多々ありますが
はっきりとはわかっておらず、自然偶発的な要素もあるかと思われます。
そして抜け参りからそれぞれの村に戻っても、特におとがめはなかったようです。
これは、神宮の御神徳を得て帰って来たことになるから無碍には出来なかったからでしょう。
ただ、江戸からでも片道半月の旅程ですから、怪我や病気、かどわかしなどなど…
無事に帰れるだけでもまさに御神徳だったのかもしれません。
伊勢に着くことすら出来ない人もいたことでしょう。
去年のGWにこの行程を大阪から徒歩でチャレンジした方の記事がありました。
道中かなりハードだったようで、私には真似できそうもありません(笑)。
せめて、当時の人もこの道を行ったのだろうな、と思いを馳せつつ
松阪をお散してみた、昨年の春でした。(↑写真)