伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【熊野詣】②熊野参拝の"先達”とは?~熊野の御師と伊勢の御師~

平安後期に上皇の熊野参拝が盛んになったことが、

「蟻の熊野詣」と言われる熊野ブームの火付け役となった…

というお話を昨日しました。

 

熊野への参拝ルートには紀伊路伊勢路の二つがありました。

いずれも難路ですが、より険しい紀伊路がメインルートとされました。

このため参詣の道者を案内する先達が活躍します。

 

白河上皇の第一回目の参拝(寛治4年1090年)においては

園城寺(おんじょうじ)の増誉(ぞうよ)が務めました。

これ以降、上皇の参詣の先達を園城寺・聖護院系の山伏が務めたといいます。

つまり、この先達たちが紀伊路を推したので、紀伊路ルートがメインとなったのです。

 

紀伊路は京から往復170里、約1ヵ月の旅程だったといいます。

鎌倉時代には武士、庶民の間に急速に熊野詣が広まり、

参詣者は先達の山伏の指導のもと厳重な精進潔斎をし、山伏姿で詣でたそうです。

道中も先達が、祓や海辺や川辺での垢離(こり)、王子社での奉幣などの儀礼の指導を行います。

 

こうして先達の制度が確立し、全国の信者と結び、

熊野の山伏は霊験の宣伝をして歩き回ります

 

おや?

このシステム…何やら覚えがありませんか?

そうです、伊勢神宮を普及した御(おんし)です。

 

御師」とは元来「御祈祷師」の略で、神社寺社に所属し祈祷を行う社僧のことです。

伊勢神宮以外にも京の石清水や賀茂にもいました。

「おんし」と呼ぶのは伊勢のみで、他の寺社では「おし」と呼ばれます。

 

勿論、熊野にも元々御師(おし)がいました。
熊野参拝の際の祈祷や宿泊の世話、山内の案内をしていたようですが、

次第に先達が率いてきた参詣者(道者)を檀那とする師檀関係が形成されていったそうです。

 当初恩師と檀那は参詣のつど両者間で契約していたのが、

この師檀関係が結ばれ、恒常的なものになっていきます。

鎌倉時代には武士にも広まり、

室町時代には農民などの庶民まで檀那とするようになったということです。

 

全く伊勢の御師と同じですよね?

そうです、実は伊勢の御師制度は熊野の御師制度に倣うところが多いのです。

 

時代が下り、伊勢の御師の活躍が隆盛を極めると、

熊野詣は下火になります。

そんな関係性もあいまって、熊野御師と伊勢御師は不仲です。

お客様である檀那の取り合いになって来ることは容易く想像出来ちゃいますよね。

 

ですが、案外紀伊半島ぐるみで共闘しているような面もあったようで、

戦国時代の山伏(熊野先達)の業務を記した史料に

「伊勢熊野社参仏詣」の文字が見られます。

また、同じく戦国期に大名の代参として、

宇佐や熱田などと並び、伊勢、熊野の文字もあります。

(参考→熊野参詣の衰退とその背景.pdf

 

戦国時代は伊勢の摂末社も荒廃しています。

このままでは寺社存亡の危機だということで

伊勢と熊野は共闘作戦に出ていたのかもしれません。

(宇佐などの他の寺社と共に)

 

それにしても、熊野詣の影にも伊勢御師あり

やはり「御師オソロシイ子…!」ですね。