【禁殺生石の謎】 初代紀州藩主の禁殺生
岡山の時鐘堂という鐘楼があります。
藩政時代にわたって時刻および非常事態を城下に知らせていた施設で、
明治維新後も1921年(大正10年)3月末まで時報として鳴らされていたと言います。
鐘楼は2階建ての堂の形式で建物高さは8メートルを超えるそうです。
2階の大梁に吊下げられている梵鐘は、
1615年(元和元年)の大坂夏の陣における豊臣方の青銅製大筒を
2代藩主徳川光貞が粉河の鋳物職人蜂屋安右衛門に命じて改鋳させたとされます。
この鐘楼のそばに、「禁殺生」の石碑が立ち、
その由来も明記されているというのです!
『紀州初代藩主徳川頼宜(とくがわよりのぶ)は、
藩の儒学者李梅渓(りばいけい)に
領民を戒めるための「父母状」を書かせた。
この「禁殺生」の碑も鳥獣等の殺生を戒めるため、
藩主が李梅渓に命じて書かせたと伝わる。
ほかに李梅渓の筆になる「睨口石(げいこうせき)」
「亀遊岩(きゆうがん)」「鶴立島(かくりゅうとう)」等の石碑が
和歌浦付近に建てられている。』
今まで、寺社の境内内での殺生を禁じる…という観点で見ていましたが
どうやらここの石碑は、領民に対する御触書であったようですね。
初代藩主頼宣はどうやらけっこうな暴れん坊だったようで
このような逸話が残されています。
「頼宣は様斬(ためしぎり)を好み、
自ら囚人を試し斬りした後、
家来一同に「さてさて、この名刀や、かくの如き切り手は日本はおろか、唐天竺にもあろうか?」と問うたところ、
儒者の那波活所が「名刀ならば唐には干将・莫耶という名剣があります。また人を殺すことを楽しんだ王なら殷の紂王など悪王がおります」と答え、
「およそ殺人を面白がるのは禽獣の仕業。人間の行いではありません」と諫言した。
以後、頼宣は試し斬りをやめたという。」
「若い頼宣が粗暴な振る舞いを行った際、
附家老の安藤直次が豪腕をもって主君頼宣を押さえつけた。
この際に頼宣の股に傷跡が残ってしまったが、
後年になって医師がこれを治そうとした際に
頼宣は「今の自分があるのは直次があの時諌めてくれたお蔭である。この傷跡はそのことを思い出させてくれるものである」として、治癒を断っている。」
もしかすると、自分への自戒を含め、
領民にも無益な殺生を禁じたのかもしれませんね。
その頼宣が建てたという稲荷神社がこのすぐそばにあります。
奥山稲荷神社です。
正徳2年(1712年)、
和歌山城の守り神として勧請されたものと伝えられるそうです。
この神社があるからこそ、鐘楼がここに建てられたのかもしれません。
頼宣は大阪冬の陣が初陣で、夏の陣でも先陣を所望していて、
長じて西国転封の折には大阪城を所望したといいます。
ですが、夏の陣の先陣も大阪城の城主となることも叶えられませんでした。
2代光貞が豊臣由来の鐘を鋳造し、
5代吉宗がこの地にその鐘楼を建てたのは
紀州藩の祖である頼宣への忠信の表れではないでしょうか。
そういった気持ちが紀州藩に脈付いていたとすると、
「禁殺生」の石碑のルーツもまた頼宣にあるのではないかと思います。
また、頼宣の頃には鐘楼がなかったのですから、
この石碑は神社の敷地の入口に立っていたのではないでしょうか?
この石碑に倣って6代宗直が神社の入口に禁殺生石を立てたように思われます。
ただ、なぜ享保のタイミングで?という謎は残ります。
吉宗の将軍就任に関係があるのでしょうか?
まだもう少し、この石を追い続けてみようかと思います。
(写真;google Map 、wikipediaから拝借しました)