【125社めぐり】 外宮 摂社 御食神社
外宮 摂社 御食神社 (みけじんじゃ)
御祭神 水戸御饗都神 (みなとのみけつかみ)
河崎から自転車で北へ。
港に向かって1キちょっと…。
勢田川が海に注ぎ込む辺りに建つ社です。
他の摂末社とはまた異なる境内。
堀のような池(?)と橋のような入口が印象的です。
内宮外宮にあるような灯篭も摂社末社では珍しいです。
神宮会館ほHPにも
「地元の産土神として奉祀され、他の神宮摂社末社とは社頭の趣は少し異なる。」
と記載があるほど。
森の中に包まれるスタイルとは違って、
開けていて明るい境内。
堀(池?)の様子も手伝って、港の神社の赴きです。
この堀は、やはり海水が行き来した入り江の名残だそうです。
手水石もまた港町らしく印象的。
船の形をしています。
素敵。ときめきます。
さすがは神社(かみやしろ)の港といった風情があふれています。
訪れて楽しさのある神社です。
「祭神は神社(かみやしろ)の港口から御料を調進する御饌(みけ)の神、
水戸御饗都神。」
と神宮会館HPには説明されています。
水戸は水の入り込んでいる港のことで、
神社港で揚がった海産物を伊勢神宮に調進する御食の神と広く理解されています。
『倭姫命世記』には「水饗神社」(みけじんじゃ)と記され、
鷲取老翁(わしとりのおきな)が倭姫命に清水を奉ったので創建されたとされます。
その時に清水を汲んだのが境内にある「辰の井」だと言います。
(1枚目の写真の正面の屋根のあるところが辰の井です。)
そこから「食物ではなく水を饗する神で、水戸の神らしい 」
とする説もあります。(豊受大神宮摂社 御食神社)
御食神社では、その故事に因んだような
初午の日のお水取り神事があります。
「新年の初めての「辰の日」に
辰の井戸から水をくみ取り初詣者に配布します。
この水で清めると一年間の
火難・水難から免れるということで、
各家では水をかける風習があります。」
ということで、火除の神としての信仰も篤いようです。
その様子は、大先輩が記事にされてます。
各家庭では家の周囲に水をかけ、
残り水を台所に供える習わしとなっているそうで、
神宮の式年遷宮の祭事のお白石持の際にも
辰の井の水を道に撒きながら御白石を奉献するそうです。
見てみたいですね、とっても。
(いや、参加したいですね、とっても)
地元で「辰の宮さん」「初辰さん」と呼ばれるのはこの所以ですね。
辰は水の神ですから、
祭神の水戸御食神と繋がるのだと思います。
さて、この御祭神ですが、地元では↑のように
速秋津日子神・速秋津日売神としています。
「祭神は水戸の神。またの名を速秋津日子神」
「水戸御食都神とも呼ばれます」
とするサイトもあります。
御食神社(伊勢神宮 外宮摂社)|伊勢志摩の観光スポットを探す|伊勢志摩観光ナビ
正確には、この二柱を合わせて「水戸の神」と総称します。
この二柱の間には
天之水分神(あめのみくまりのかみ)・国之水分神(くにのみくまりのかみ)など
八柱4ペアの神が生まれます。
「大祓詞」では、川上にいる瀬織津比売神によって海に流された罪・穢を、
「荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す速開津比売(はやあきつひめ)と云ふ神」が
呑み込んでしまうと記されています。
そう、瀬織津比売といえば、内宮別宮の荒祭神ともされるます。
瀬織津比売が川上、速秋津比売が潮の入り込む入り江に…
そのままバッチリです。
「速」は美称、「秋」は「開」の借字、「津」は「港」と解し、
「勢いの速く盛んな、河口の男性・女性」と考えられるといいますので、
この名もまさしくこの地の神にぴったりです。
また、葦原中国平定の時、
水戸神二神の孫・櫛八玉神(くしやたまのかみ)が膳夫(かしわで)となったと言います。
これは「御食の神」との関連が伺えますね。
そしてこの櫛八玉神は出雲市の火守神社の主祭神でもあるそうなのです。
堅田神社辺りから出雲神話とのリンクも激しくなってきた感がありますね。
私見としては、
神宮の伝える神話(神宮主観)としては、
ですが、産土神を大事にする地元としては、
速秋津比古&比売の出雲に連なる神話性を守りたい、
といった見解の相違かと思います。
社殿の横には賽銭箱があります。
(社殿の写真をごらんください)
船江の河原淵神社にもあるのですが、
外宮の地元の産土としての側面が強い神社には賽銭箱があるイメージです。
末社の赤崎神社にもあります。
師匠のブログに興味深い記載を見つけました。
「御食神社は神宮の摂社であると共にこの地の氏神さんでもある。
内側の御垣は神宮のもので、外側は神社港が潤っていたため頃に造られ、現在に至っている。」
かみやしろ港まつり、御食神社(豊受大神宮摂社) – 神宮巡々2
どうやら御食神社は現在も神宮と地元と二重に守られているのですね。
御食神社は他の摂末社同様に中世に祭祀が断絶し、
寛文3年(1663年)に現社地で再興されたそうですが、
外宮摂社でありながら、度会県管轄の村社に列し、
伊勢神宮と度会県から二重に所管されることとなったそうなのです。
「こうした二重管轄はほかの神宮摂末社でも発生したため、
11の末社が神宮の管轄から外れた一方、
そのまま二重管轄とすることが明治5年(1872年)に申し渡された。
加努弥神社では1881年(明治14年)12月に氏子が内宮末社と村社の分離を求め、
御食神社に関しては分離が提起されたという記録はなく、分離問題はなかったと見られる。」
引用が長くなりましたが、
ここからはどれだけこの御食神社がイレギュラーで、
どれだけ地元の産土としての信仰が篤いかがわりますよね。
河崎の産土・河邊七種神社もそうですが、
伊勢では地元の神社を中心としたコミュニティーが今も健在で、
その祭祀を中心とした生活スケジュールが息づいているのを感じます。
それはやはり、神宮が式年遷宮を中心とした大きなタイスケジュールと
それに伴う祭祀を神領民が奉仕する文化に大きく関わっていると思います。
ですがその半面で、神宮は神宮、産土神は産土の神と
それぞれを違ったものとして捉えていることも確かです。
神社港の町には、河崎や二見同様に古民家がまだ残ります。
鳥居のお向かいにも素敵な古民家が!
鳥居と古民家…最高のフォトジェニックです(うっとり)。
神社港は、
「勢田川下流の「水戸の御食都神の社」(『儀式帳』)を含むことは、
この河口港が早くから要衝であったことを示すものであろうか。 」
(櫻井勝之進『伊勢神宮』)
という考察があるように、古くから栄えた町ですが、
現在はひっそりとしつつあります。
当店のお客様でも「神社出身でこっちに戻りたいけど」
という県外在住の方もいらっしゃいました。
この町並み、残っていって欲しいけれど…。
時代は折しもリモートワークの流れ。
都会を離れて生活がしたい、そう思われてる方は
この神社、河崎、二見界隈も是非候補に入れていただきたく思います。
私も、なる早で伊勢に戻りたい!
そう思いながらリモートで収入を得られる力を蓄えようとしている2020年です。
(2019.10.6.参拝)