伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

倭姫考察③倭姫の旅路~おおまかな考察編

倭姫を語る上で欠かせないのがアマテラス大神の鎮座地を求めての旅です。

 

ですが、この旅路は「古事記」では語られていません。

日本書紀」や「皇大神宮儀式帳」、「倭姫命世記」に記されています。

 

 

皆様御存知の「日本書紀」の成立は奈良時代の720年成立、

皇大神宮儀式帳」は皇大神宮の行事・儀式などを記した文書で、平安時代の804年に神祇官宮司が提出、、

倭姫命世記」は「神道五部書」と言われる書物のひとつで、奈良時代に成立とされますが、実際は鎌倉時代頃成立とされています。

 

今に伝わる倭姫伝説は、この「倭姫命世記」に依るところが大きく、

この書物が江戸時代に「偽書」と糾弾された過去があることなどから

信憑性をいぶかしむ人は多いです。

 

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では国史とされる「日本書紀」の記述を見てみましょう。

 

垂仁天皇二十五年)

三月丁亥朔丙申、離天照大神於豐耜入姫命、託于倭姫命。爰倭姫命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡筱、此云佐佐、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時、天照大神誨倭姫命曰「是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也。欲居是國。」故、隨大神教、其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也。

一云、天皇、以倭姬命爲御杖、貢奉於天照大神。是以、倭姬命、以天照大神鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後、隨神誨、取丁巳年冬十月甲子、遷于伊勢國渡遇宮。是時倭大神、著穗積臣遠祖大水口宿禰而誨之曰「太初之時期曰『天照大神、悉治天原。皇御孫尊、專治葦原中國之八十魂神。我、親治大地官者。』言已訖焉。然先皇御間城天皇、雖祭祀神祇、微細未探其源根、以粗留於枝葉。故其天皇短命也。是以、今汝御孫尊、悔先皇之不及而愼祭、則汝尊壽命延長、復天下太平矣。」時天皇、聞是言、則仰中臣連祖探湯主而卜之、誰人以令祭大倭大神。卽渟名城稚姬命、食卜焉。因以、命渟名城稚姬命、定神地於穴磯邑、祠於大市長岡岬。然、是渟名城稚姬命、既身體悉痩弱、以不能祭。是以、命大倭直祖長尾市宿禰、令祭矣。

 

(意訳)

アマテラス大神を豊入鍬姫から離して、倭姫に下ろして鎮座地を探すのに、宇陀(奈良)に詣でて近江国に戻り、美濃の東を巡って伊勢に入った。
するとアマテラス大神は「ここは神風が吹き、常世の国から波が返す国です。ここが気に入ったのでここにいたいわ」とおっしゃったので、この五十鈴川の上流に磯宮を建てて御鎮座した。

 

というだけのお話で地名などは出てきません。

「一伝」(こんなお話もあるよという注釈)にも地名は詳細に書かれてはいません。
(何で祀ったのかという説明が長く興味深いところなのですが、この内容はまた後日)

ところが、神宮の神官が記した本である「皇大神宮儀式帳」や「倭姫命世記」には道筋が記されていて、

今も伊勢神宮のHPには以下のように地図付きで道行きが記されています。

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  1. 三輪の御諸みむろの宮
  2. 宇太うだ阿貴あきの宮
  3. 佐佐波多ささはたの宮
  4. 伊賀の穴穂あなほの宮
  5. 阿閇拓殖あへつみえの宮
  6. 淡海おうみの坂田の宮
  7. 美濃の伊久良賀波いくらがわの宮
  8. 伊勢の桑名の野代のしろの宮
  9. 鈴鹿小山おやまの宮
  10. 壹志いちし藤方ふじかた方樋かたひの宮
  11. 飯野いいの高宮たかみや
  12. 多気佐々牟江迤たけささむえの宮
  13. 玉岐波流磯たまきはるいその宮
  14. 佐古久志呂さこくしろ宇治の家田やた田上たがみの宮

 (参照:神宮の歴史・文化|神宮について|伊勢神宮

 

非常に細かい!
そしてこの地はどこも「元伊勢」と呼ばれ、それぞれの比定地もあります。(諸説ある土地も多いのですが)

(実はwikiにとても詳しまとめてくれてます→元伊勢 - Wikipedia

 

日本書紀ではスルーされていたのに、なぜ神宮の神官たちはこの足跡にこだわったのでしょう?

 

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実は、夢枕獏先生が著書『陰陽師』で面白いことを仰っています。
「これは、幣帛の旅である」と。

 

つまり、この巡った地の神を訪れる必要があったのだと言うのです。

そしてこのルート(それぞれの土地を巡る順)にも意味があり、
その足跡が結ぶラインがとても重要だということに触れていらっしゃいます。

また、歩くことでその地を鎮め、結界を張る意味もあるかもしれません。

 

「アマテラスは旅する(彷徨う)神」説や、

「これはアマテラス軍の軍行の旅路だから迂回しているのだ」

などなど諸説ありますが、

この、「神官のみが足跡を記した」ということに意味があるのならば、
夢枕先生の説はとても的を得ているように思われるのです。

そしてそれは日本書紀のアマテラス大神の言葉にも表れているのです。

「是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也。欲居是國。」

これは「国を見て褒める」という天皇が行った祭祀に通じます。

 

古代の天皇はその治める土地を山の山頂などから見て和歌を詠み国の発展を願いました。

また、「国ほぎ(褒め)」といい、その土地を褒めることでその地の神を鎮める和歌を詠むこともあります。

 

万葉集の2番目の和歌をご覧ください。

 

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ

海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

これは舒明天皇が国見をしたお祝いの呪歌です。
この「見る」という行為を古代の人は大事にしていて、「国見」は天皇の行う祭祀でもありました。

更に褒め讃えることはその土地の神への一種の幣帛であったと考えられています。

 

まさにアマテラス大神の言葉はこれなのです。

伊勢の国を見て褒めているのですから「この地を治めよう」という意思を示しているのです。

 

ここに見えて来るのは、都を追われたアマテラスが代わりの土地を与えられた物語であり、
巫女である倭姫がそのために必要な神々(境界の神や敵対氏族の神)をなだめた行脚の物語では?
と私は今思うのです。


ゴールが決まっていたからこその旅程なのです。
日本書紀の「奈良へ行き、また近江に戻り、ぐるりと東をまわって伊勢に」という
妙に端的な書き方もそれならばうなづけませんか?
そして一伝の妙に言い訳がましい記述も、
アマテラス大神を伊勢に鎮座させねばならなかった理由に思えるのです。

 

伊勢に住んでみないとわからないことも沢山ありますが、
伊勢に住んでみても謎だらけなのが「伊勢神宮」です。

 

その神官たちが作り出した「倭姫の旅路」という観点こそが
倭姫をそしてアマテラス大神の謎を解くひとつの鍵ではないでしょうか?