伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

倭姫考察②Before倭姫~アマテラス大神と豊入鍬姫の時代

これから少々ロングスパンで倭姫命について考察していこうと思っていますが、
まずは倭姫以前の時代背景や経緯を見ていきましょう。
私説も入りますが、ご在宅の徒然にお楽しみいただければ…と思います。

 

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倭姫は11代天皇垂仁天皇とその二人目の皇后である日葉須媛の間の4人目の子供とされています。

兄に後の景行天皇がいます。

垂仁天皇の父は10代祟神天皇です。
祟神天皇は9代開化天皇の子とされていますが、
この祟神天皇こそが史実上の初代の天皇では?という説もあります。


祟神天皇も実在していないのでは?などなど諸説ありますが、
私は初代神武天皇系統とは「別王朝」説を支持していまして、
更に個人的には壬申の乱(672年)までは王朝が並立していたのでは?とも考えています。
(いつかまたの機会に詳しくお話したいです)

 

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さて上記の系図は必要な要素だけをざっくりとまとめたものです。

(呼び名を表す漢字はいくつかある中から読みやすいものを採用しています)

 

私は国文学畑の出ですので、日本書紀よりも古事記を重点的に読んで来ましたが、

古事記には、豊入鍬姫伊勢神宮、また倭姫の記載は極めて乏しく、

豊入鍬姫には「伊勢の大神を拝き祭りたまひき」と柱書き(注釈)がついているだけです。
古事記の中のこの類の注釈はあからさまに辻褄合わせのものが多いです。)

 

ところが、日本書紀には

(祟神)六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豐鍬入姫命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。神籬、此云比呂岐。亦以日本大國魂神、託渟名城入姫命令祭、然渟名城入姫、髮落體痩而不能祭。

と書かれています。

 

意訳しますと、

お百姓さんが村から逃げ出したり、悪いことが重なるので(古事記では疫病が流行ったとされています)
占ったところ、アマテラス大神と倭大国魂神(=大国主神?)を並立して宮中で天皇が祀ってるのがいけないと出た。
そこで、アマテラス大神を豊鍬入姫に託して、笠縫邑で祀らせることにした。
大国魂神は渟名城入姫命に託そうとしたが、髪の毛が抜け落ちたりして祀れなかった。

ということです。

 

よく「アマテラス大神と大国主天皇に祟った」と解釈されますが、

よくよく状況を見ますと、アマテラスは豊鍬入姫を人柱として宮中を追放されているともとれますし、
豊鍬入姫を道連れに家出をしたようにも受け取れませんか?
一方大国主は、追い出されまいと渟名城入姫命に祟っているのです。
(毛髪が抜けってすごいストレスを与えられたとも解釈できそうですが。)

その後御信託により、大物主神を意意多多泥古(おおたたねこ)を神主にして
御諸山(三輪山)に祀る記載が、古事記日本書紀共に見られます。

 

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この大国主と大物主とアマテラス大神の記載が並んでなされてるところも興味深いのですが、
これまた別件に譲るとしまして、アマテラス大神に注目しましょう。

突然「宮中でお祀りしてる」と当たり前のように出て来ますが、
それまでアマテラス大神について目立つ記載は古事記日本書紀共にあまりないのです。

祟神天皇のこの段になって突然日本書紀にのみ現れたことは、
古事記日本書紀の成立背景にも関係してくるところではありますが、
それにしても、突然現れ、突然追い出されたか出て行きたいと言い出すのです。

これは、祟神天皇とアマテラス大神の反りが合わなかった、もしくは

祟神天皇がアマテラス大神を恐れたから、ではないでしょうか?

 

どちらにせよ、アマテラス大神は祟神天皇の崇拝する氏神とは別だったと思われます。
ですので、神に生贄のように大事な娘を差し出しているのではないでしょうか?

 

そして大国主神にも同じことをしようとして、失敗している…
これは、アマテラス大神を氏神とする氏族を退けたこと、

大国主神氏神とする氏族は退けられなかったことを暗喩しているのでは?と私は考えます。

 

では、祟神天皇の崇拝していた氏神は誰か?となりますが、、、
そうです、古事記にも手厚く描かれている大物主神です。

 

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日本書紀の祟神48年にこのような話があります。

卌八年春正月己卯朔戊子、天皇豐城命活目尊曰「汝等二子慈愛共齊、不知曷爲嗣。各宜夢、朕以夢占之。」二皇子、於是、被命、淨沐而祈寐、各得夢也。會明、兄豐城命、以夢辭奏于天皇曰「自登御諸山、向東而八廻弄槍・八𢌞擊刀。」弟活目尊以夢辭奏言「自登御諸山之嶺、繩絚四方、逐食粟雀。」則天皇相夢、謂二子曰「兄則一片向東、當治東國。弟是悉臨四方、宜繼朕位。」四月戊申朔丙寅、立活目尊、爲皇太子。以豐城命令治東、是上毛野君・下毛野君之始祖也。

(意訳)
天皇が跡継ぎを決めようと夢占いを二人の皇子にさせました。
兄豊城命は「御諸山に登り東に向かって大きな槍と刀をふりまわした」と言い、
弟の活目尊は「御諸山に登って、縄を四方に張り雀を追い払った」と言いました。
そこで天皇は、豊城命を東征に向かわせ、活目尊に位を継がせることにしました。

 

つまり、大事な世継ぎを決める御信託を御諸山(三輪山)の大物主神にさせているのです。

そしてもうひとつ注目したいのが、ここに出てくる豊城命(豊城入彦)が豊鍬入姫の同母兄なのです。
活目尊とは倭姫にアマテラス大神の鎮座の地を探させた垂仁天皇その人です。

 

豊城&豊鍬兄妹の母は、紀国造の荒河戸畔、または大海宿禰の娘の八坂振天某辺とされています。
紀国=伊勢ととれますのでこれは後世の脚色も穿ってしまうのですが、

大海宿禰の家系となりますと、鍬姫と共に神を下ろされた渟名城入姫命と同族となります。


また、渟名城入姫命は沼名木之入日売命古事記では記されており、

大物主神を祀らせた意意多多泥古と通じるような雰囲気の字面となっています。(私見激しい?)

 

この意意多多泥古は三輪山大物主神と活玉依姫との子とされ、

神官を生業とする賀茂氏の祖とされています。

そして、賀茂氏といえば、京都の賀茂神社

 

どの角度から見てもアマテラス大神を崇拝している一族ではない人たちが
アマテラスを遠退けているように感じられますよね。

では次回はいよいよ倭姫の旅へとお話を進めて行きたいと思います。