伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

倭姫考察③倭姫の旅路~ちょっとディープ編

昨日はざっくりと、倭姫の旅路が神道に由来するものでは?という考察してみました。

今日は倭姫の歩んだ足跡をもう少し細かく見て行きましょう。

(*今日の挿し写真は、倭姫も立ち寄ったとされる櫛田川の清流です)

 

f:id:itoshiya8ise:20200412102632j:plain

 

前述しましたが、倭姫の細かな足跡は神宮の神官が著わしたものにしか見られません。

国史に記すべき歴史的な重大事ではなく、神宮にとっての重大事だったのだと思われます。

 

後世の「古語拾遺」や「扶桑略記」などの書物にも

日本書紀」に記された内容に沿った記述のみとなっていますので、

広く世に聞こし召した話でもなかったのかと思います。

 

今回は、「皇大神宮儀式帳」からその足跡を見て行きます。

伊勢神宮HPにあります記載もこちらに沿ったものとなっているからです。

 

f:id:itoshiya8ise:20200412102847j:plain

 

  1. 三輪の御諸みむろの宮 →高宮神社(大神神社摂社)
  2. 宇太うだ阿貴あきの宮 →阿紀神社(現高天原神社)
  3. 佐佐波多ささはたの宮   →御杖神社
  4. 伊賀の穴穂あなほの宮 →猪田神社
  5. 阿閇拓殖あへつみえの宮      →都美恵神社
  6. 淡海おうみの坂田の宮  →坂田明神宮
  7. 美濃の伊久良賀波いくらがわの宮 →天神神社
  8. 伊勢の桑名の野代のしろの宮 →野志里神社
  9. 鈴鹿小山おやまの宮   →忍山神社
  10. 壹志いちし藤方ふじかた方樋かたひの宮 →加良比乃神社
  11. 飯野いいの高宮       →滝野神社(現水屋神社合祀)たかみや
  12. 多気佐々牟江迤たけささむえの宮     →竹佐々夫江神社
  13. 玉岐波流磯たまきはるいその宮   →相可上神社(磯神社内)
  14. 佐古久志呂さこくしろ宇治の家田やた田上たがみの宮  →田上大水神社

 

上記がお立ち寄りの場所とその比推地とされる場所です。

比推地は神社になっていたり、元々神社等だったところが多いですが、

その中から大胆にも私が推定してみた場所の記載となっています。


このお立ち寄りの場所を「元伊勢」と呼ぶことが多いのですが、

大々的に「元伊勢」を謳う神社の御祭神などを見ますと、どうにも

「おや、この近辺に倭姫が来たらしいぞ。よし、うちの神社がその伝承地ということにしよう。

 そうなると、やはり天照大神倭姫命もお祀りせねば」

という意図が見え隠れするような気がするのです。

権威を笠に着ると言いますか、のっかり商法といいますか、失礼ながらもそう思ってしまうのです。

 

ですので今回、私見的比推地にしたポイントは御祭神となっています。

 

f:id:itoshiya8ise:20200412103020j:plain

 

倭姫がどうやら幣帛の旅をしていたらしいという仮説は昨日お話しましたが
そうであるならば、その土地土地の神が祀られている場所に立ち寄っていると思うのです。

そこで、私が比推地の中から「ここでしょう」と大胆予測をした場所は、その土地の神、

またはその土地の氏族の長が祭っている神(氏神)とリンクする神社です。

 

この予想は多分、「皇大神宮儀式帳」の記述の思惑であるとも言えるはずです。

その一部を抜粋しますと…

 

次飯高県造乙加豆知ヲ。汝国名何問賜。白ク。忍飯高国ト白シ即神御田並神戸進シ。而飯野高宮坐シ。

というようなやりとりが延々と続きます。

 

この「名を問う」ということが重要で「名乗る」ということは「あなたに従います」という意味になるのです。

万葉集の大事な1番目の和歌がまさしくこれでして

 

泊瀬朝倉宮御宇天皇代   天皇御製歌 (雄略天皇の御歌)

 

篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね

そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ

我れこそば 告らめ 家をも名をも

 

(意訳)

かごを持って薬草を摘んでいるかわいいお嬢さん、どこのお家の子なの?
私はなんとこの大和の国を治める者です

その偉大な私にあなたの苗字も名前教えるべきでしょう?

 

という尊大なナンパ、いえいえ、妻問の歌なのです。

名を聞くことは結婚の申し込みで、名を教えることは自分をその人のものとすることでした。

学生時代から「何でこの壮大な万葉集の1首目が天皇の御製歌とはいえ妻問いの歌なの?
という疑問はあったのですが、実はこれは

新たな領地から妻を向かえ、その一族を支配下に置いたことを暗示しているのではないでしょうか?

 

そして2首目は昨日お話した「国見」の歌で、領地讃える神事の歌です。
これも新しく我が物にした領地だからこそ必要だったのではないでしょうか?

万葉集天皇の行った国土の拡大と安寧のお話から始まるとすると、何だか納得できませんか?)

つまり、アマテラス大神も倭姫を依り代とした旅の中で、領地を広げていっているのです。

 

f:id:itoshiya8ise:20200412102727j:plain

 

そしてもう一つ注目したいのが、その領民が「神御田並神戸」を差し出していることです。

 

神宮に田畑寄進する…この流れに覚えはありませんか?

 

そうです、御師です。

 

皇大神宮儀式帳」があるのに、
更に倭姫に詳しく書かれた「倭姫命世紀」が書かれたのは、鎌倉時代

御師が東国などに行脚しだしたのも、鎌倉時代

 

倭姫命世紀」では、更に姫のお立ち寄り場所が多いです。

これもしかすると、御師に神宮の荘園を諸国に増やしたかった神官が

「ほら、古来から倭姫という高貴な方がアマテラス大神の依り代となってあちこちで領地を寄進してもらってたんですよ。

ですから神宮の神官である御師に荘園を寄進することは古代からの尊い行いと同じなのですよ」

という流れをつくるための副読本として「倭姫命世紀」をつくらせたのでは?
穿った見方が出来てきてしまいます。

 

ですから、神宮にとって倭姫の旅程は必要で、国には必要がないのでは?

 

どの説を信じるのもあなた次第!
これが古代史の醍醐味ですよね。

 

んん?そうなるとやはり倭姫の旅路はアマテラス勢力の領土拡大と侵略の旅路になるのかも?

と思われた方もいらっしゃるかも?

明日もまだまだ倭姫のお話は続きます。