倭姫考察①倭姫って誰ですか?
ここ最近当ブログのテーマである「伊勢河崎の町」から
かなり逸脱したお話が続いてしまっていますね。
ようやっと昨日、お話が河崎に戻って来た!
…のですが、
河崎のお話やオススメのお店をご紹介しても「なかなか行けないよ~」というご時世ですので
この機会に、伊勢の歴史を私見を交えつつ御案内して行こうと思います♪
なぜなら伊勢はその歴史を知って訪れると2倍、いや100倍楽しい場所なのです。
知らなきゃ損!
というわけで、今日からは
「この方なしでは伊勢神宮について語れない」という伊勢の歴史のキーパーソンのお一人、
「倭姫」についてご紹介行きたいと思います。
また私説たっぷりの予定です。
*今日の写真は滝原宮に掲げられていた倭姫伝説です。
こちらも御参考にしてみてくださいね。
私が地方巡業の仕事(笑)の末に、伊勢でお店を構える決心をしたときに
三重出身の方に「倭姫みたい!!」と冗談とお世辞交じりの言葉を何回かいただきました。
三重界隈では「倭姫」は、こうやって日常会話に登場するほどの認知度ですが、
関東など他の地方の人にとっては「誰?それ???」という感じだと思います。
11代垂仁天皇と皇后・日葉酢媛の間に生まれたとされています。
日葉酢媛は垂仁天皇の二人目の皇后で、
倭姫のほかにも後の景行天皇もお生みになっています。
倭姫は伯母にあたる豊入鍬姫命の後を継いでアマテラス大神の御杖代となります。
…と言われましても、意味がわかりませんよね(笑)。
豊入鍬姫についてはまた後日詳しくお話しますが、ザックリ説明しますと、
アマテラス大神の巫女のようなお仕事をしていた人です。
倭姫はその後を継いだのです。
が、アマテラス大神が「ここじゃないところに新居を構えたい」的なことを言い出すのです。
そこで、アマテラス大神の安住の地を探して、倭姫さんが旅に出ることになります。
御杖代とは、アマテラスの魂の依り代であり、旅に伴うまさに「杖」の役でした。
倭姫の旅の行程はとても長く、
大和(奈良)を出発し、伊賀、近江、美濃、尾張とぐるりと周回してから伊勢に入ります。
この写真の滝原宮のように、伊勢界隈では特に倭姫が立ち寄ったという伝承の地が多いです。
私も何箇所かは行ってみましたが
「昔の姫様ってこんなに健脚なの!??」
とつっこみたくなるような険しい場所も多いです。
(旅程や伝承地はまた後日詳しくお話したいと思います。)
さて。
あちこち立ち寄りアマテラス大神に「ここは?」「ここは?」と問いかけつつの
まるで大規模な住居の内覧ツアーのようなハードな旅(想像)ですが、
ついにYESのお答えを得ることが出来ます。
日本書紀にはその様子が
この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ
と語られています。
そしてこの伊勢の地にアマテラス大神の神殿が建てられ鎮座なさることとなります。
(この最初の神宮の場所についてもこの滝原宮など諸説ありますのでまた後日)
これで倭姫の旅もおしまい。
ようやくお役御免かと思いますよね、ところがまだまだ倭姫のお仕事は続きます。
倭姫のそもそものお仕事は、アマテラス大神に仕える巫女です。
この伊勢に鎮座してからも巫女としてのお仕事は続きます。
アマテラス大神に仕える天皇の皇女…といえば「伊勢の斎宮」を思い浮かべる方も多いと思います。
「斎宮」という名称でアマテラス大神に仕えた最初の皇女は、天武天皇の次女・大伯(来)皇女です。
ですが、その前から伊勢でアマテラス大神に仕える巫女がいたのです。
ですので、倭姫が斎宮のはじめ、と言われる方もいらっしゃいます。
(その伯母の豊鍬入姫が最初、という説もあります)
そして倭姫は伊勢でその生涯を閉じたと言われています。
今日はざっくりと倭姫ってどんな人?というお話をしてみました。
明日以降はもう少しマニアックに、伊勢で見聞きして学んだ倭姫像に迫りたいと思います。