倭姫考察⑫倭姫以降の斎宮の皇女たち
さて。10日余りに渡って倭姫について考察をして来ましたが、今日はそのラスト。
ちょっぴりオマケ編です。
倭姫以降のアマテラス大神に仕える斎宮についてちらっと見ておきましょう。
伊勢神宮は、天武天皇の御世に行政的に整備が進み、大伯皇女が斎宮となり、
それ以降、一代に一斎宮を立てた祭祀が行われるようになります。
倭姫以後大伯以前の斎宮を今日は見て行きます。
稚足姫皇女(栲幡姫皇女)―雄略天皇 (西暦450年前後)
荳角皇女(佐佐宜郞女)―継体天皇 (西暦500年前後)
磐隈皇女(夢皇女)―欽明天皇 (西暦530年前後)
菟道皇女(菟道磯津貝皇女)―敏達天皇 (西暦570年頃)
酢香手姫皇女(須賀志呂古郎女)―用明天皇 (西暦590年頃)
大伯皇女―天武天皇 (西暦680年頃)
こう見ますと、一代一斎宮ではないものの、
大伯以前は比較的コンスタントに斎宮が立てられていたように感じます。
ただ、稚足姫皇女から酢香手姫皇女までは伊勢に下向していないという説もあります。
では、ざっくりと一人一人について見て行きます。
稚足姫皇女
母は葛城円の娘韓姫。
この円は安康天皇を殺害した眉輪王と同時に嫌疑をかけられた坂合黒彦皇子をかくまい、
雄略天皇に攻め滅ぼされています。
そのときに雄略天皇に屯倉(領地)と韓姫を差し出して命乞いしたといわれています。
稚足姫皇女も数奇な運命を送ります。
斎宮に任命されて後、阿閉 国見に
「廬城部連武彦が稚足姫皇女をけがしまつり任身(はら)ましめた」
と讒言をされてしまうのです。
稚足姫は否定しますが、廬城部連武彦は父に殺されてしまいます。
稚足姫は神鏡(八咫鏡)を持ち出し、五十鈴川のほとりに埋め、死んでしまいます。
その御心境から虹が上がっているのを見つけられ、皇女の遺体が発見されます。
検死されたところ、お腹には水と白石しかなく、二人の罪は晴れます。
息子を殺してしまった廬城部 枳莒喩は国見を恨み殺害しようとしますが、
国見は石上神社に逃げ込んだとされます。
荳角皇女
母の麻績娘子(麻組郎女)は息長真手王の娘です。
「伊勢大神祠に侍った」との記述があるのみになっています。
磐隈皇女
異母兄弟の茨木皇子(母は蘇我小姉君。祟駿天皇と穴穂部皇女(用明皇后・聖徳太子母)の同母兄)に犯されたため、解任されています。
菟道皇女
菟道磯津貝皇女が正式な呼び名と思われますが菟道王とも呼ばれます。
母は皇后広姫で息長真手王の娘とされ、荳角皇女と従姉妹にあたります。
同母の兄に押坂大兄皇子がいます。
池辺皇子(用明天皇?)に犯され解任されます。
広姫亡き後に皇后となった額田部皇女(推古天皇)の長女に菟道貝蛸皇女がいます。
同一人物なのかは定かではありません。
酢香手姫皇女
母は飯女之子(当麻倉首日呂の女)、または広子(葛城直磐村の女)とされ、
同母兄には当麻皇子がいます。
用明天皇の即位から推古天皇の御世まで三代37年間斎宮を務めたとされています。
*記紀に記載はありませんが、
五百野姫(久須姫)―景行天皇
伊和志真姫―仲哀天皇
が倭姫の後に斎宮を務めていたと『斎宮記』などには見られます。
五百野姫は倭姫と同時に伊勢にいて倭姫から祭事を教わったとも言われています。
(参考→斎王紹介その1/明和町ホームページ)
さて、お気付きの方も多いと思いますが、
斎宮は男性と関係をもつことによって解任されます。
「聖なる女性は処女であるべき」という世界中でよくある伝承と同じパターンですが、
その力を失ってしまうことが理由にされているのも万国共通だと思います。
(そこから派生して月のものが穢れとされていくのかもしれません。初潮前に限るとかも。)
ですが、日本ではちょっと違っていて斎宮の持つ「妹の力」を得ようとされたのだと思います。
大伯皇女も弟大津皇子がクーデターを起こす前に会っているのですが、
これも妹の力を得るためではなかったかと思うのです。
大伯の解任の理由も「謀反人大津の血縁だからというよりも男性に会ったからだ」
とされる説がよく見られるのもこのためです。
そして「会う」という古語には
「見れる」「見られる」「見せる」「会う」「男が女と結婚する」「と思われる」「現れる」「やって来る」
という意味があります。(代ゼミ黒須先生仕込み!)
意味深ですね。
ですので昔から大津大伯近親婚説があるのです。
(異母兄妹婚は認められていましたが、同母兄妹婚は禁忌でした)
ですので、斎宮が男性と関係を持つ事は甘いロマンスで関係を持ったのではなく
クーデターのために「妹の力」を手に入れようとしたのだと思うのです。
大津も伊勢下向自体がクーデターであるとして捕らえられた説もあるほどです。
そしてよく見てください。
この禁忌を犯した皇子たちの血統を…。
また、稚足姫は明らかに政争に巻き込まれていますよね。
(石上神社に逃げ込むのも諸々意味深です。同様のケースが他にもあります。
長くなるので、またの機会に譲りたいと思います。)
この時代はまだまだ王朝が一本に整っていなかったと私は考えています。
そこには有力氏族やその背景にいる神々をも巻き込む争いがありました。
いよいよ、伊勢神宮の謎にも迫っていく流れが出来てきたように思われますので
次回からは伊勢神宮について考察をしていきたいと思います!!!