伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【熊野詣】⑧伊勢神宮を救済した熊野比丘尼とは?

内宮界隈、おはらい町を歩いていて

長~い塀と立派な門の建物に気付かれる方は多いと思います。

「これ何かな?」と思いつつも、

入口は閉まっていますし、特に目立った看板もないですし

「お寺か何かかな?」くらいの感想で通り過ぎてしまう方がほとんどだと思います。

 

何を隠そう、私もそうでした(笑)。

ですが、この建物こそが伊勢神宮の苦境を救った熊野比丘尼に縁の寺院跡なのです!

 

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その名は「慶光院」。

創始は、後醍醐天皇の皇女で最後の斎宮であった祥子内親王と言われる尼寺です。

江戸時代は主に朝廷・将軍家などの依頼による祈祷を行ない、

隆盛したようですが、明治の廃仏毀釈により廃寺。

その後、神宮が保護するかのように買い取り、現在にこの姿を残してくれています。

 

寺は当初、山田西河原(現在の伊勢市宮後)にありましたが、

慶長年間(1596~1615年)にこの宇治に僧房を構えたといいます。

 

慶光院は、室町時代に一時断絶していたそうで、

それを再建したのが尼僧の守悦さんです。

 

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守悦さんは熊野比丘尼であったといいます。

正確な出自は不明ですが、藤原北家系の飛鳥井家出身との説が有力です。

出家したのち紀伊国に住み、熊野と伊勢を行き来しながら

宇治畑町の弁天堂の穀屋で勤行したと言われています。

 

守悦さんは勧進による普請を行なって

延徳3年(1491年)と永正2年(1505年)の2度、

宇治橋の架け替えに尽力ししました。

その功績により、「上人」の号と

高位の者のみしか着用出来ない禁色の紫衣を許されました。

 

なぜ二度も橋を架けたかといいますと、

この時代の宇治橋は現在のあの大きな橋とは異なり

洪水などですぐ流されてしまうような造りでした。

 

最初の橋は明応4年(1495年)8月に洪水で流れてしまいました。

明応7年(1498年)、守悦が内宮に参籠中に

「瑞相が現れた」という内宮禰宜の庁宣によって

再び勧進を行ない改めて宇治橋の架け替えを行なうことになります。

 

この瑞相云々は信仰上の方便のようなもので、

橋を架ける許可(本当は依頼?)を与えたのだと思います。

 

当時の神宮は、皇族も幕府も貧窮していたために式年遷宮も行えず、

けっこうなボロボロ状態であったようです。

文明年間(1469年 -~1486年)頃になると、伊勢の御師のみならず、

勧進聖の金策によって宇治橋の架け替えなどが行われていたそうです。

 

 

その跡を継いだ智珪さんも守悦さんの弟子として紀州に在住し、

天文15年(1546年)に熊野で没したといいます

堂上家の出身とされるものの、家名も事蹟も不明ですが、

熊野に縁の方―多分熊野比丘尼であったことでしょう。

 

 

そのまた跡を継いだ清順さんは、熊野の旧入鹿村出身で

熊野比丘尼であった言われています。

 

清順さんも勧進によって天文18年(1549年)に宇治橋の架け替えを行い、

天文20年には後奈良天皇から庵を「慶光院」と号して良いという綸旨を賜っています。

そう、この名に因んで後に寺院が「慶光院」という名になったといいます。

(宇治に移ったときのようです)

 

更に清順さんは多くの大名諸侯に働きかけ、

永禄6年(1563年)に豊受大神宮(外宮)の正遷宮を129年ぶりに実現します!

 

清順さんはかなりコネクションを駆使したようで、

知人の御師から外宮神主を通じて禰宜にその意向を伝えたといいます。

また、伊勢国司・北畠具教に面会して、参詣者の便宜を図るために

伊勢・近江の間にある関所を一ヶ月に渡って開放させたりもしています。

 

清順さん、本当は最初に内宮の遷宮をしたかったようですが

内宮から許可が下りずに外宮の遷宮になったといいます。

ですが、この外宮の功績から内宮の態度も軟化したのか、

清順さんは内宮遷宮の勧請を計画していたようです。

ですが、その志は叶わず、外宮遷宮の3年後に入寂します。

 

清順さんの功績は最も称えられていますが、

自らを「慶光院三世」と称したといい、

守悦さんが初代と呼ばれています。

 

その志を継いだ四世・周養さんは内宮正遷宮を行なう勧進を行ない、

天正3年(1575年)には内宮の仮殿遷宮に漕ぎ着けます。

その後、織田信長と知遇を得て造替費として銭3,000貫文の寄進を受け、

信長没後は豊臣秀吉からも銭1万貫文の寄進を受け、

天正13年(1585年)に内宮と外宮同時の遷宮が実現されます。

内宮の遷宮は123年ぶりでした。

 

こうして治世者が神宮遷宮の後ろ楯となることとなり、

5世・周清さんが院主であった慶長8年(1603年)と、

寛永6年(1629年)・慶安2年(1649年)の正遷宮では

江戸幕府から遷宮朱印状が慶光院に下されることとなります。

ここに幕府との縁ができ、祈祷を担当するようになったのでしょう。

(寛文6年(1666年)の遷宮からは関係が薄くなっていくようですが…)

 

慶光院は江戸時代には幕府だけでなく、

朝廷や徳川御三家からも崇敬を集めたといいますが、

ここには紀州藩と熊野の影響も感じられますね。

 

 

以上、こうして見て来ますと、昨日の記事でも述べたように

伊勢御師と熊野の癒着はもうべったり!ですよね。

 

また、開祖の祥子内親王(周徳と呼ばれた方と同一人物かと思われます)も

熊野に住んでいたとも伝わります。

慶光院 - SHINDEN

 

また、斎宮との繋がりでみた興味深い考察を

斎宮歴史博物館のサイト内に見られます。

 

「祥子内親王も尼になって都を離れたという伝承があり、

 最後の斎王が尼になり各地を歩いた、という伝承が、

 たとえば熊野比丘尼のような巫女的な性格を持つ尼僧集団によって語られた、

 なんて可能性もあるのかなぁ、とも思います。

 何しろ伊勢神宮遷宮を復活させた16世紀後半の尼僧、慶光院は熊野比丘尼出身なのですから。 」

斎宮歴史博物館:斎宮千話一話

 

(余談ながら、私が慶光院の熊野比丘尼について興味をもったのが、

 斎宮歴史博物館の館長さんのお話を聞いてのことでした)

 

熊野比丘尼の前身が巫女であったとされるのは、

慶光院の流れからきているのでは?と私も思います。

 

 

また、徳川や朝廷ラインで見ますと、

公家出身で徳川家光公のご愛妾となったお万の方

この慶光院の院主だったんですよね。

 

熊野―伊勢―朝廷―徳川―熊野…

というループを感じずにはいられません。

 

 

皆様も今度おはらい町を散策される際には

慶光院についてハナタカトークをご同道の方にしてみてくださいね♪