伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【禁殺生石の謎】 尾前神社のケース(津市)

 

マニアックなネタでお送りしております【禁殺生石の謎】シリーズ。

今日は、伊勢を離れて津に建ちます尾前神社さんに着目してみたいと思います。

 

私はまだ参拝出来ていないので、

今日は調べた情報のみになりますので

御寛恕くださいませ。

 

近鉄名古屋線・千里駅から海に向かった住宅街にある神社で、

地域の氏神様として祀られ、

獅子舞行事も行われるそうです。

 

創建には倭姫命にまつわる伝説もあり、

「天照皇大神の神託を奉じて南下の途次、

 天閾(ミカド)に尾前の地に一社を鎭座すべきことを上奏す。

 因て天皇勅を伊勢の國司(の)大若子命に下して始めて神殿を建て、

 天村雲命の苗裔博多の岩立(イワタテ)命宣旨を蒙り、奉幣使と爲り之を祭る。」

と昭和27年提出の神社明細帳に記されているそうです。

 

御由緒書きは以下の通りです。

 

【御由緒】

佐須良比売命を祭神とする。
垂仁天皇18年に勅命によって今の千里ケ丘中尾前の地に神殿を建て

その後鎌倉後期頃に村人と共に現地に移転したと考えられる。

尚当社は霊験殊にあらたかで天武天皇(679)より

尾前土宮の宮号を賜り一名土御前と号し、

また後鳥羽天皇の代(1185)に奄芸祓所の称号を受けている。
当神社に獅子頭二口があり

国中の悪鬼邪神を祓うために

朝廷(高倉天皇の御代)より奉納せられたものである。
上野城主より社領5石を受領し、

明治維新の際天皇神宮御参拝の帰途勅使をして御代拝せしめられている

尾前神社

 

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こちらの境内入口の鳥居の右手の石垣に「禁殺生」の石碑が立っています。

年号は「享保丙午」。

 

このように立派に囲われて保護されているのも、

神宮125社などの禁殺生石を見慣れていると「おぉ」という灌漑がありますね。

やはり歴史的な価値がありそうな趣が増します。

 

そして、この尾前神社の場合特筆すべきはこの見た目だけではありません。

神社に史料が残っているのです。

 

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津市 - 「広報津」第314号歴史散歩、津市(このまち)で輝くによりますと、

まず、享保年間より10年ほど前、

正徳3年(1713年)に

神社の修繕費用を当時紀州藩主であった徳川吉宗公が寄進したそうです。

これは神社に保管されている棟札によって分かっているそうなのです。

棟札とは、建物の棟上げや修理等の際、

年月、施主・施工者等を記した木製の札のことです。

 

そして神社に保管されている棟札の中には、

禁殺生の石碑の建立に関わるものもあるというのです!

 

表面に享保11年(1726年)9月の秋

紀州藩六代藩主の徳川宗直寺社奉行に命じて

この石碑を境内に建立したことが記され、

裏面には松坂城をはじめ、

白子代官所の役人として仕えた郡奉行のほか、

郡山村(現 鈴鹿市)の大庄

大別保村(現 河芸町東千里・西千里)の庄屋などの名前が記されているそうなのです!

 

この石碑建立には、藩だけでなく多数の人物が関わったことが分かる重要な史料です!!

 

同サイトでは

伊勢国の江戸時代の地誌『勢国見聞集』には、

 県内の紀州藩領において、

 紀州藩が禁殺生の石碑を建てた寺社の名称が、

 おざき神社をはじめ複数記されています。

 いずれも宗直が藩主の時に石碑の規格を統一して建てられており、

 詳しいことは分かっていませんが、

 紀州藩の寺社施策として行われたものと考えられます。」

と考察されています。

 

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享保丙午は1726年

吉宗が8代将軍として江戸に赴き、

従兄弟の宗直が紀州藩主になった享保元年(1716年)からちょうど10年です。

 

吉宗からも宗直からも寄進や奉納があったことから

紀州藩から尾前神社が崇拝されていたともとれますが、

紀州藩が藩内の寺社に対して手厚い政策を行っていたと考えた方がしっくり来る感じもします。

 

では、紀州藩ってどんな藩だったのか?
明日はそこに着目してみたいと思います。

 

(写真;google mapより)

 


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