【禁殺生石の謎】 花の窟神社HPの記載 【熊野詣】
【熊野詣】シリーズ、花の窟神社についての記事を書くにあたり、
公式HPを見ていたところ、気になる記載がありました。
創建にまつわる以下の文章です。
「花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。
南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。
此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。
此の神、伊弉冉尊の御子なれば王子の窟という旧藩主に於いて、
此の霊地保護のため寛文9年9月、
及び元禄8年11月四至限界御定書を下付し、
且つ高札を建て殺生禁断を布令せられた。」
キタコレ!
「禁殺生」です!!!
(何事かと思われたかたは当ブログ【禁殺生石の謎】シリーズをご覧くださいませ。)
明確に「霊地保護のための禁殺生」と書かれています。
勿論高札を出したのは紀州藩のはず(または田辺領主)。
旧藩主が「イザナミ(熊野の神)の子を祀るからここは王子社だろうよ!」と言ったことに因むようですね。
王子の窟とはカグツチの祀られた磐座のことです。
(写真↓)
この旧藩主とは浅野氏を指すと思われます。
浅野氏も信心深く、古寺名刹に寄進をしています。
また、浅野時代は寺社の本格的な復興期で、移転したり開基したりする寺社も多かったようで、
浅野氏も入国時に甲斐から僧侶を移住させて菩提寺を建てたり(大泉寺)、
安芸に転封の際に紀州から僧侶を広島に移住させたりしていています。
寺社を丁重に扱っていたそうで、その寺社政策はそのまま徳川紀州藩が受け継いでいたようです。
(他の藩政も浅野氏の政策を引き継いだものが多いようですから、浅野氏は優れた施政者だったのでしょうね)
ですから、この記述も、
「禁殺生」の地としましょうという政策を
浅野氏から徳川紀州藩が受け継いで高札を立てと解釈してよいかと思います。
つまり「禁殺生」は浅野氏から引き継いだ
聖地保護政策であったようです。
この聖地保護政策が享保年間の「禁殺生」の石柱にも込められているのでしょうか?
ちょっとずつ謎を開く鍵が見えてきたような気がしますね。