【禁殺生石の謎】 特別保護神社ってどういう意味かという個人的考察
昨日の記事で、ついに
「禁殺生」石の立つ神社は
紀州藩に「特別保護神社」と認定されていた神社ではないか
という私なりのアンサーが導き出されました。
では、「特別保護神社」とは何を保護したのでしょうか?
それは、神社そのものは勿論のこと
境内の鎮守の森の保護も含まれると思うのです。
昨日ご紹介した芳養神社の「境内使用について!」という立て札に
「当神社境内(馬場を含む)は古来「八島の壇」と呼ばれ特別信仰地で、
江戸時代は特に特別保護神社「禁殺生」であって保護された。
現在も境内全体の樹木「社叢林」は、市文化財(天然記念物)になっている。
保護上から、神社行事に関わる意外の境内仕様は禁じられています。
芳養八幡神社 」
と記されているのがその根拠です。
日露戦争後、政府の推し進めた神社合祀政策に猛反発していますが、
その一因が「神社の鎮守の森を守るため」でした。
神様が住まう場所…という観点というよりも、
熊楠の研究してきた植物や菌類などの自然環境を守るためだったと思われます。
また、神社を合祀して消し去ることは
その地域の歴史を消し去ることにも繋がるという危機感もあったようです。
(↑南方熊楠生誕150周年記念企画展「南方熊楠-100年早かった智の人-」(2017年12月19日(木) ~2018年3月4日(日))- 国立科学博物館にて。)
ですが、熊楠の「鎮守の森を守る」という考え方は「禁殺生」の考え方とリンクしている
というか、紀州藩のその教えが根底にあったのではないかと思うのです。
以前このブログでも三重県津市の阿漕が、
神宮への供物を採取することから「禁殺生」とされた話に触れましたが、
(【禁殺生石の謎】 お寺の石碑は大きい説 - 伊勢河崎ときどき古民家)
和歌山城下の和歌の浦もどうやらその傾向があったと思われるのです。
和歌の浦(和歌山港)のそばの友が島に掲げられた「五所の額」という
李梅渓が初代藩主頼宣に命じられ刻んだ文の中にも「禁殺生」が見られます。
カツオ・タイ・イワシ・アワビ・アラメ・ワカメ・ミル・ツジモ・フノリを
加太郷の海女が採取していたそうです。
そしてそれに関連したものか、
(『和歌山の歴史』 山川出版 より)
つまり、大嘗祭に貢納する供物を採るために「禁殺生」として保護していたのでは?と思うのです。
熊野も領内であるこ、
浅野氏時代に城下にキリシタン教会があったことなどから、
宗教について、かなりナーバスに政策を打ち立ててきたようです。
その宗教政策の一環として、
寺社の取締りと保護をしてきたのではないでしょうか?
そのためか、明治の神社合祀の際にも紀州藩はかなり厳しくそれを行ったといいます。
また、伊勢国内でも125社の歴史から見ますと、同様に厳しく寺社を統制しているのを感じます。
(紀州藩の領地において)
本来は、寺社やその境内、自然環境を保護しようと「禁殺生」を置いていたのに、
熊楠が反発する程にその寺社の自然と歴史を消し去ってう政策を強行したとは、
時代の荒波とはいえ皮肉なものですが…。
そして熊楠が危惧したように、寺社が消えた(合祀された)ために不明になってしまった記録も多いです。
鎮守の森の緑も減ったのももちろんです。
改めて熊楠は100年先を見通す眼力の持ち主であったと思います。
ですが、初代藩主頼宣も100年200年先の紀州藩のために
寺社に「禁殺生」を置き、保護を行った賢君だと私は思います。
それが享保年間の「禁殺生」石柱を置く政策にも繋がったのではないでしょうか?
そして、まさしくその享保年の記録が合祀などでも消えてしまった感も否めず…。
ぐるぐると因果のまわるのを感じてしまいます。