【禁殺生石の謎】 これまでのまとめ
「禁殺生」の石碑という、
めちゃくちゃマニアックなことを探求していっておりますが(笑)、
少々謎が細い糸で部分部分繋がって来た感じがします。
- 紀州藩が領土内の寺社に複数の「禁殺生」の石碑を立てている。
- 「禁殺生」石は、田丸・松阪城下の神社に多く、ほとんどが「享保甲辰」年のものである。
- 和歌山城下には大きなサイズの「禁殺生」石碑が寺院に立てられており、初代藩主頼宣の立てたものもあり、御触れのために立てたという。
- 初代藩主は儒学者・李梅渓に「父母状」という人間の生きるうえでの心得を草案させ、藩内に広く流布させた。
- 頼宣&李梅渓は友が島に「五所の額」を刻み、そこにも「禁殺生穢悪」の文字がある。
ルーツは「父母状」にあるような感じがしてきました。
親殺しという事件から、広く領民に儒学の心得を広げようとしたことが発端で、
「禁殺生」もただ「境内は殺生を禁ず」のではなく、
人々が多く訪れる神社という場所に「殺生は禁止する」という御触れとして立てたのが発端のようです。
(岡山の時鐘台堂前の「禁殺生」石による)
神社、特に地元の産土を祀るところは村民が必ず行く場所です。
ですから沢山の人が目にするように、産土を祀る神社に石柱を立てたのでしょう。
現代でいうならば、駅前にポスターを貼るようなものですよね。
そして「父母状」の事件は、熊野という紀州藩の主城・和歌山城から離れていたために
自分の政道が行き渡っていないのでは、と頼宣は嘆いたといいますので、
田丸松阪に多く「禁殺生」が置かれたのは、
紀州藩の政道を行き届かせるため、
この地域も紀州藩の管轄であると知らしめるためではなかったかと思うのです。
そうなってきますと、謎はあの「享保甲辰」ですよね。
頼宣の時代から100年は経っています。
今度はそこに着眼していこうと思います。