享保甲辰と刻まれた「禁殺生」の石柱を数多く目にし、
「これは何だろう?」と単純に疑問を抱き調べてきております、
【禁殺生石】シリーズ。
ついに、その意味がわかったかもしれません!
(*本日の写真は google mapより拝借しています)
その謎を解く鍵は、和歌山県田辺市の芳養八幡神社(はやはちまんじんじゃ)にありました。
とても立派な神社で境内も広く、お祭りは和歌山県の「無形民俗文化財」となっています。
町の大事な産土ですね。
ですが、この神社も伊勢の多くの寺社と同じく、戦国時代に荒廃します。
(天正15年、秀吉軍によって全焼)
その後すぐ再建されたといいます。(天正18年)
そして、神社の御由緒にこうあります。
(六) その後、浅野左衛門及び安藤直次の度重なる御供米、
神殿の御造営、紀州藩主頼宣公の参詣時の境内殺生禁止の御証文の下附(1724)、
安永9年(1779)の領主安藤直時の絵馬(繋馬)の献上等々、世に有名である。
禁殺生の御証文!?
なんだそれは!?
石碑とは違うのか!??
と、昂ったのですが、
ん?1724年?
藩主は頼宣ではありません。(宗直です)
和歌山県の神社のサイトなどでは
「1724年には特別保護の境内殺生禁止の証文が下されたほか、
1779年には繋馬の絵馬、
1825年にも白猪毛皮の皮空穂などが領主より献納されました。」
ととなっています。
頼宣が参拝した際のことが、
100年近く後になって証文下賜されたということでしょうか?
なぜ?
こちらの芳養八幡さんは、境内の説明書きがとても丁寧で素晴らしく、
この「禁殺生」の証文について詳しく書かれた札もありました。
なんと。
「禁殺生」政策は頼宣以前の浅野氏の統治時代からだったようです!
頼宣は浅野氏の統治を踏襲したといいますから、
寺社への「禁殺生」政策も浅野氏から引継いだものだったのかもしれません。
歴代当主は、紀州藩の執政として紀州藩政に参与することが多かったといいます。
そして直清が授けた「禁殺生の御証文」=「御制札」でしょうか?
その答えは、こちら↓の札にさらっと書かれていました。
「当神社境内(馬場を含む)は古来「八島の壇」と呼ばれ特別信仰地で、
江戸時代は特に特別保護神社「禁殺生」であって保護された。」
禁殺生とは紀州藩が特別に保護した神社で
御証文や札、石柱はそれを示すものだった!?
なるほど、それで全ての神社に「禁殺生」が置かれておらず、
石碑などの目印がなくても「禁殺生」と言われる神社が『紀伊続風土記』等に散見するのですね!!!
そして、石碑がない神社で「禁殺生」と言われる特別保護神社には
その御証文が藩から下されたのではないでしょうか?
もうひとつ、ではなぜ「享保甲辰」が多いのか?
この時期に特別な何かがあったのは明白ですよね。
これは紀州藩が寺社政策を行った年ではないかと思うのです。
↑の札に
「享保10年(1725)の田辺領在郷神社改帳」
という文字が見られます。
やはり享保9年前後に藩の政策として寺社政策が行われたのでしょう。
それは、保護をするための見直し(チェック)を含んでいたのではないでしょうか。
もしかするとこの年に新たに「禁殺生」=「特別保護神社」と認定された神社もあるのかもしれません。
ですから100年近く時を経て「ここは頼宣公が参拝されたから」ということで
「禁殺生の御証文」がこの時になって下賜されたのではないでしょうか。
そして、この芳養八幡さんにもなんと!
禁殺生石がありました!!!
(てんこ盛!美景旧跡。きいたなべ さんより拝借)
明らかに新しい石碑ですが(御影石?)、
これは立て札が示したように「当社は特別保護神社である」という
プライドのようにも見受けられます。
かっこいい…。
芳養八幡さんの丁寧な札書きと
それをGOOGLE MAPに載せていただいた皆様のおかげで、
ついに禁殺生とは何だったのかがわかったと言っても良いかと思います。
コロナ禍が過ぎたら、和歌山の旅に出て
実際に参拝させていただきたいです。
(*参考にさせていただいたサイト様
https://www.kkr.mlit.go.jp/kinan/fukeikaidokumano/kumano/area2/tenjinzaki.html