【禁殺生石の謎】 紀州徳川家
6代将軍吉宗と14代将軍家茂を輩出したことでも有名ですね。
その家系図は以下のようになります。
↑の宗直の代に「禁殺生」の石が寺社に奉納されています。
宗直は吉宗が将軍となり江戸城に入った享保元年に紀州藩主となります。
この紀州藩は、藩の領土が入り組んで複雑です。
また鳥羽も独立した藩となっています。
この紀伊半島の沿岸部にいくつか支城はありますが、
主城は西端といってもいい和歌山城です。
「禁殺生」石の多い松阪や田丸には城代も置かれたり、
山田奉行所が置かれたりと東側は役人が治めている印象ですね。
この領土支配の仕方なども「禁殺生」石を置いた寺社政策に関係しているのではないかと想像します。
掌握権を明白にしたかったのか、
ちゃんと松阪や田丸の寺社も管轄・保護しますよ、というある意味でのゴマすりの寄進があったのか?
そしてこの享保年間に行われたことに意味はあるのか?
がほとんどない状態なのですが、
じわじわと究明していきたいと思います。