伊勢河崎ときどき古民家

伊勢と河崎の町と神社と古民家と好きなものに囲まれた日々のコラムです

【伊勢の神社】 御厨神社 (松阪市本町)

 

便宜上タイトルが「伊勢の寺社」となってますが、

大きく「伊勢の国の寺社」ということで…

今日ご紹介するのは、松阪にあります御厨神社です。

 

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松阪城の城下町、

松阪商人の家や本居宣長生家などの並ぶ界隈のそばに建ち、

大きな鳥居と広い境内が印象的な神社です。

すぐそばには阪内川が流れます。

 

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その名の通り、内宮の御厨が創始と言われていて、

その創建は大化二年(646)頃とされ、

元々は飯高郡下ツ牧(現、平生)にあったと言われています。

 

古くは平生は参宮の駅路にあたり

勅使参向の時には当社に止館し、

交通の安全を祈願したと伝えるといい、

「見送り神社」とも呼ばれる所以となったそうです。

三重県神社庁教化委員会 » 御厨神社

 

戦国時代に入ると125社同様に戦火により社殿は退廃。

天正12年(1584) 蒲生氏郷松坂城を構築する際、城郭の大手先に奉遷しますが、

元和6年(1620)紀州藩徳川頼宣の家臣、長野九左衛門が城の鬼門の鎮守として現在地に移したといいます。

 

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主祭神スサノオ命。

伊勢でスサノオ命を祀る産土の神社と同様に、

毎年正月には城門において獅子舞を奉納すること江戸時代にはされていたようです。

 

松阪には、毎年7月中旬に行われる「松阪祇園まつり」があります。

 

祇園さん…そう、京都の八坂神社のお祭りを彷彿とさせますが、

やはりスサノオを祀るものです。

 

「松阪祇園まつりは平安時代

 京都で始まった御霊会(ごりょうえ)に由来し、

 牛頭天王(ごずてんのう=スサノオ)を祀る

 八坂神社の祭りが松阪に波及したものだと伝えられています。


 松阪四天王といわれる牛頭天王を祀る

 弥勒天王(日野町八雲神社)・

 御厨天王(本町御厨神社)・

 雨竜天王(魚町雨竜神社、明治41年阪神社へ合祀)・

 毘沙門天王(西町八重垣神社、同年松阪神社へ合祀)

 の四社の祇園会であったと伝えられています」

 

 この時に、御厨・雨竜両天王社では獅子舞が奉納されたそうです。

 

 (松阪祇園祭について | 松阪祇園まつり三社みこしオフィシャルサイト

 

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内宮の御厨が前身でありながら、スサノオを祀るようになったのは、

神宮の摂社末社でありながら、産土信仰と融合した例と共通ですが、

地元民である本居宣長の『日記』元旦に

「詣産神祠並町山神社」等と見える「産神祠」がこの御厨神社のことで、

坂本町、魚町の産土神であるとされています。
 
 「中里常守説(『本居宣長随筆』)に依れば、

 最初「世名浦大明神」、また「石津権現」と言い、

 世名浦三十余浦の海魚を神宮へ献じる神社であった

 場所は、現在の松阪市石津町、荒木町あたりか。

 天正年間、本町大手筋伊豆蔵の近く、津嶋屋の裏に移すが、

 長野氏(代官・任期、元和5年~寛永14)の時、

 現在地、本町馬喰町に遷座。」

という記述が本居宣長記念館 「御厨神社」の項に見られます。

 

前身は平生の御厨所であったものが、松阪の海魚を奉じる神社と統合してのでしょうか?

 

本居宣長氏神である同社へ「古事記伝」全44巻を刊行時に書簡と共に奉納したといいます。

また、安永9年(1780)に遷宮したときには歌3首を献じ(色紙が神宝として現存)、

天明5年(1785)には神社扁額の染筆を宣長より荒木田経雅に依頼し(これも現存)、

「御廚神社、祢宜正四位上荒木田神主経雅謹書」と刻されているそうです。

 

 

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広い境内には、

三圍(みめぐり)稲荷神社、

髙春稲荷神社、

大山祇神社

猿田彦神社

祓所社も建ち、

御祭神も

加夫呂岐命、

火産霊命、

木花之開耶姫命、

大山祇命

奥津彦命奥津姫命

応神天皇

宇迦之御魂命、

市岐島姫命と

バラエティに富んでいます。

 

例の明治41年(1908)には八幡神社、奥津彦神社、市岐島姫神社を合祀したといいます。

(*あちこちの神社で合祀が行われまくった年です)

 

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また、個人的にとても興味深いのは、

嘉永3年(1850年紀州侯が「境内殺生禁断」の石標を献納していることです。

 

神宮摂末社に見られる享保年間でないものの、
どうやら紀州藩は寺社にこういった石柱を度々立てていたことがわかりますよね。

寺社をしっかり管理していたことの表れなのでしょうか?

 

今後まだまだリサーチしていきたい紀州藩の石柱案件です。

(どこに向かっているのか?我が好奇心??)

 

(2019年5月30日参拝)

 


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