HOW TO GO伊勢~昔のお伊勢参り~②旅路編
御師華やかなりし頃、江戸時代。
太平の世の中、人々はお伊勢参りを楽しみました。
今日はその行程を垣間見てみようと思います。
ケース①江戸からの場合
エコノミーコースでも4貫500文(85000円ほど)、
大きな伊勢講でのファーストクラスで15~20両とも言われ
(200万円ほど。これには御師の館の宿泊接待費や古市での豪遊費も入ります)、
かなりの差がありました。
更に細かく、このような史料も残っています。
文化4年(1807年)、武蔵荏原郡太子堂村庄屋の森次左衛門さんが、伊勢参りをしたときに使ったお金の記録を、『旅金小遣覚帳』という名で残しています。
・・・・ 正月19日 昼の弁当 64文、 小休み 84文、 大井川船賃 232文、 旅籠 200文、 駄賃 12文、 庵馬(あんま?) 32文、 同 12文、 あんま 32文、 合計 668文 正月20日 小夜中山あめ餅 10文、 昼の弁当 116文、 小休み 32文、 ほん 16文、 半紙 24文、 草鞋(2足) 24文、 旅籠 172文、 その他色々 272文、 合計 666文 ・・・・ |
伊勢神宮へお参りした後、大坂・京・善光寺を経て、47日間の旅でした。総費用は4両と695文(27,895文)、1日平均590文でした。
(http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J029.htmから転載)
こちらの森さんがベーシックな価格のコースだったのでは?と推察します。
所謂ビジネスクラスのイメージです。
(前にも述べましたが、深川の大店の御隠居が17人で60両(600万円)でしたからね)
江戸時代は、政情や飢饉などで相場の上下が激しいのは皆様歴史で習われたかと思いますが、
1両が約10~20万円と言われます。
よく言われるのが「かけそば16文」です。
(今はかけそば500円~700円ってとこでしょうかね?)
ケース②筑紫からのコース
西国からは船旅「舟参宮」が一般的でした。
こちらは嘉永2年(1849)、現福岡県筑紫野市の方の旅行記。
2月6日に出発し、同年閏4月3日に帰着の86日間、
同行3人、従者2人の5人旅といいますから
かなりの裕福な方のようで、あちこちの物見遊山を兼ねた豪華コースです。
2月12日に宮市(防府市)に到着し、ここから赤穂まで船旅。
13日午前出帆、途中岩国・宮島・広島に停泊(錦帯橋や厳島神社、広島城下や寺社など見物)。
20日多度津に到着し(金毘羅宮に参詣)。
24日五ッ時赤穂に到着。
上陸後、陸路で姫路、明石、舞浜(舞子)を経由しています。
大阪から舟便で伏見に着いたのが3月2日(京都で11日間見物)。
14日東海道を下り、鞍馬山、比叡山、石山寺、名古屋城下を経て熱田神宮に参詣。
19日、熱田宮から伊勢湾を桑名までを船便で。
帰路は、初瀬寺・奈良、高野山、和歌山を経由して4月4日に大阪に到着、17日に出帆、
閏4月1日に黒崎着、翌2日は飯塚出発、3日に無事帰宅したそうです。
(http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo90.htmより抜粋)
ちなみに御師へ初穂料を銀1分(1/4両=2.5~5万円)払ったとの記載もあるそうですが、
これが純粋に神楽代なのか、一人頭の宿泊費なのかは判然としません。
残念ながら旅の総費用はわからないのですが、
宮市から赤穂までの舟代が5人で2両(一部貸切代含む)、
熱田から桑名の船代は1人68文だったそうです。
この筑紫の方は一大豪遊ツアーでしたが、
このようなあちこちの物見遊山を兼ねお伊勢参りをするパターンはとても多いです。
当時は太平の世とはいえ気軽な旅行は禁止されていました。
そのためにあるのが「関所」ですね。
ここで武士なら「通行手形」を庶民は「往来手形」を必要としましたが、
伊勢神宮などへの参拝に関してのみ、ほぼ無条件でした。
そこで伊勢参拝を旅の理由にあちこちに物見遊山をすることが多くなるのですね。
ですが、やはり庶民には夢のまた夢にも思える「お伊勢さん」。
伊勢講でも、く引き当てるか、順番を10年も20年も待たねばなりません。
そこで庶民の奥の手となるのが「ぬけ参り」です。
次回はこの最終奥義「ぬけ参り」について見て行きたいと思います。