お陰参り60年周期説
昨日の「抜け参り」のお話で少し触れました、
「お陰参り」が60年ごとに起こっているというお話について、
私の考察も交えてお話してみようかと思います。
(「抜け参り」が「お陰参り」という呼び名で定着したのは明和の頃、と言われますが
今日は「お蔭参り」の呼び方で統一いたします)
「天から神宮大麻(お札)が降ってきた!」などと言って起こった
とされる爆発的な伊勢参りのことを「お蔭参り」と呼びます。
江戸時代に度々起こっています。
まずは「お陰参り」が起こった年をまとめてみましょう。
・慶安3年(1650)
・宝永8年(1705) ~50日間362万人
・明和8年(1771) ~207万人
・文政13年(1830) ~4ヶ月486.2万人
ご覧のようにほぼ60年周期です。
しかも、ほぼ式年遷宮の直前直後に起こっています。
・慶安3年(1650) ~1649年9月 第44回式年遷宮
・宝永8年(1705) ~1709年9月 第47回式年遷宮
・明和8年(1771) ~1769年9月 第50回式年遷宮
・文政13年(1830) ~1829年9月 第53回式年遷宮
「お陰参りは御師が仕組んでいた」という説が成り立つのはこのためかと思われます。
元々御師の誕生の裏には、工夫米と呼ばれる神宮の荘園からの上がりで賄っていましたが、
それが叶わなくなり、神宮経営の困窮が御師が地方に檀那を求めるきっかけの1つにもなっているからです。
(歌川広重 伊勢参宮宮川渡しの図|展示・所蔵品(コレクション)|神宮徴古館・農業館|神宮の博物館 )
そして面白いのが、この60周年周期が今も続いているように思われることです。
文政のお陰参りの60年後は、本来は1890年頃になりますが、
その前にイレギュラーな自体が起きています
慶応3年(1867)の「ええじぇないか」です。
「ええじゃないか」は神宮のお札ではなく、
その地方地方の寺社のお札が舞うことによって起こっている、
「お陰参り御当地バージョン」です。
これがあったため、民衆の「お陰参り熱」が少しリセットされたのでは?と思います。
この慶応3年(1867)も式年遷宮の直前です(1869年9月 第55回式年遷宮)。
そして、1890年が早まったと想定すると、その60年後は1950年頃。
戦後すぐのことですが、1953年(昭和28年)10月には見事に第59回式年遷宮が行われています。
これはソースがなく、全くの私の私見ですが、
この式年遷宮は「戦後復興」のシンボルでもあったと思われます。
爆発的な伊勢詣では起きなかったかもしれませんが、
戦後を生き抜いた人々にとってはとても特別に映ったのではないでしょうか。
そしてその60年後が2010年頃。
平成25年(2013年)に第62回式年遷宮が行われました。
これは自分の感覚と地元の方のお話、そしてデータにも出ているのですが、
この式年遷宮前後は特に参拝客が多かったのです。
そして、通常は式年遷宮後に参拝客は急激に減るのですが、
その下降線が非情に緩やかなのです。
そして2019年の「令和」到来での参拝客の殺到!
GWの10日間で外宮・内宮合わせて88万2152人の参拝客だったそうです(神宮発表)。
前年39万6953人といいますから倍以上です。
(両宮ともに参拝された方はどちらにもカウントされていますので、実数はもっと少ないと思いますが)
これは「令和のお陰参り」と言っても良いかもしれませんね。
このお陰参りはまた、民衆の不安を煽る政情ともリンクしています。
慶安2年(1649年)慶安のお触書(幕府による百姓への生活統制)
元禄15年(1702年)赤穂事件(この時代は将軍綱吉の庶民にとっての悪政が続いています)
文政10年(1827年)文政の改革(幕府の村落支配強化)
そして、ええじゃないかの起こった幕末、
戦後に当たる1950年は朝鮮戦争が起こったりまだ世の中に不安が蔓延していましたし、
そして2010年頃といえば2011年の東日本大震災…。
そしてまだまだブームの令和に入っての伊勢神宮参拝。
今も昔も、気持ちの不安を癒そうと伊勢へと向かう民衆の心理は同じなのかもしれませんね。