アシハラ考①
前回、葭原神社への参拝記事を書きました。
この「アシハラ」…日本古代史好きにとっては何とも興味深い言葉ですよね。
今回は「アシハラ」について考察してみたいと思います。
「アシハラ」と聞くと真っ先に思い浮かぶのは「葦原の中つ国」です。
この世界…この日本を指し示す日本神話に必出のワードですよね。
私は大学の授業では、この世界を高さで表現した時にこうなる…と習いました。
天の国(高天原)は空に、
黄泉の国は地下に、
その中間、すなわち我々の住む地上が葦原の中つ国である、と。
これは、古事記にこの考え方が顕著ですね。
「天孫降臨」の話では天からアマテラスの皇孫が降臨する設定です。
また、アシハラシコオこと大国主命が迫害にあった時、
木の又を通って根の国へと赴きます。
これは地下の国…黄泉の国とも言えますね。
このようないわば「天国・この世・地獄」のような世界観は
キリスト教や仏教の教えなどともリンクしますので
私たちにとって一番理解がしやすいように思います。
ですが、この空間を平面上でも捉えることが出来ます。
「あま」とは「天」であり「海」であるという考え方です。
この説を唱える学者さんも多くいらっしゃいますよね。
初心に戻ってピュアな気持ちで考えてみると
「【天】も【海】もなぜ同じ【あま】と読むんだろう?」
と思います。
「あまざかる」という言葉もありますので、遠く離れた場所を空(3D空間)であろうと海(平面的空間)としても「あま」としたのだとは思います。
ですが、古事記においてアマテラスは「天」をスサノオは「海」をツキヨミは「星(または夜)」を治めるように父のイザナギに命じられます。
古事記の書かれた7~8世紀には、3D空間として「天」と「海」は別のものとたらえられていたのでしょう。
ですが、神話の時代はどうでしょうか?
実は平面的にとらえられていたのではないかと私は思うのです。
「海」=「天」であったと考えると、「あしはらのなかつくに」という言葉がひどくしっくりくるのです。
葦は水辺や湿地帯に生える植物です。
つまり、水→海の近くが葦原なのです。
その海との境界になるのが川です。
川は堀のように人工的なものを含め境界線となることが多いです。
現在でも県境や市の境目が川だということはよくありますし、
何より神宮も「火除橋の先は聖地」としています。
また下宮のお膝元の山田でも苦界堀が聖と俗との境界線になっています。
その渡川は禊であるといいます。
五十鈴川でも現代でも禊が行われますし、二見浦でも行われるのです。
葭原神社は五十鈴川の近くに位置しています。
その御由緒として、神宮会館のHPには
「その昔、この辺りが五十鈴川の葭(葦)原であったことが、社名からうかがえる」
とあります。
そもそも伊勢は宮川と五十鈴川、勢田川、外城田川、櫛田川など河川が多く、
そのために湿地帯が多いのです。
つまり、伊勢はまさに「あしはらのなかつくに」なのです。
それらの河川は伊勢湾に注ぎます。
湾岸の大湊にも神宮の摂社末社があります。
そして勢田川の河口そばの地名が「神社(みやしろ)」です。
「はい、ここから神の国ですよ」という分岐のようですよね。
アマテラスはヤマトヒメとの旅路の終着点として伊勢を選んだ際に
「神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰する国なり。
傍国の可怜国なり。」
と言っています。
日の神のはずが「常世の国の波」つまり海を基準にしているのです。
天が基準ではないのは「天=海」の思考からでしょうか。
「常世の国」についても諸々の考察がなされています。
ここでは(長くなるので)触れずにおきますが…。
感覚的には「天つ国」とも近いものに感じますよね。
そう捉えるならば…
「この伊勢の国は高天原からの波が届く場所です」
「美しい海のそばの良い国です」
「ここにいたいと思います」
と、アマテラスが言ったことになります。
やはり伊勢が葦原の中つ国なのかもしれません。
根の国は「木の又をくぐった先」=「木の国(紀伊国)の先」とされているので
これは熊野のあたりを指すと考えると…
「よみがえりの神」とされていることも頷けますね。
筑紫申真先生は『アマテラスの誕生』で「日本神話の大元は伊勢の土着の神話である(意訳)」と述べています。
神話の国…と聞くと宮崎を思い浮かべることも多いのですが、
天武・持統朝、文武朝において伊勢神宮を設立したことからも
古事記の神話の大元は本当に伊勢にあるのかもしれませんね。