【熊野詣】おまけ・西国三十三所巡礼
西国三十三所と掲げられた寺院を見かけたり聞いたりしたことがある方も多いと思います。
近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称とされていて、
日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れています。
四国の御遍路さんに近いイメージでOKです。
この西国三十三所の巡礼の第一番を飾るのが、熊野三山の那智大社なのです。
神道の確立、仏教の伝来前から確立していたとは思いますが、
伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)に、
天竺から渡来した裸形上人が
那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音菩薩を本尊として開基したとされます。
6世紀末 - 7世紀初に生仏聖が
胎内に如意輪観音菩薩を納めた本尊を安置する如意輪堂を建立します。
そのお堂が中世以降、
那智執行に代表される社家や
那智一山の造営・修造を担う本願などの拠点ともなります。
中世から近世にかけて熊野那智大社と一体化し、
明治に神仏習合の廃止を経て、
新たに「青岸渡寺」と名付けられて復興したといいます。
この寺号は、信長に焼き討ちされた際に再建した秀吉に因み、
秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来すると言われています。
では、そもそもなぜ三十三所の一番に配されたのでしょう?
養老2年(718年)、
大和国の長谷寺の開基である徳道上人が冥土の入口で閻魔大王に会い、
「地獄へ送られる者があまりにも多いから、
日本にある三十三箇所の観音霊場を巡って滅罪の功徳を得て、
その巡礼によって人々を救いなさい」
という託宣と起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻されます。
そしてこの宝印に従って定めた霊場を三十三所としました。
ですが、世間に普及しないままこの世を去ります。
熊野権現が姿を現し、三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けます。
このとき先達を務めた仏眼が巡礼方式を定め、
花山院が各寺院の御詠歌を作ったといい、
現在の三十三所巡礼がここに定められたと言われます。
なるほど、それで那智を起点とするのですね。
では、二番目の札所はどこでしょう?
そしてこの1→2→3のルートは、熊野詣を逆に進むルートにあたります。
この三十三所巡礼のルートは、16世紀に確立したと言われています。
つまり、この頃には修験者だけではなく庶民も三十三所巡礼が流行していたと考えられます。
庶民が三十三所を巡るようになったのは15世紀頃と考えられていて、
これは熊野詣が「蟻の熊野参り」と言われるほどに流行したのと同時期です。
16世紀に入ると熊野詣が衰退しますが、
これは三十三所巡礼の一部に熊野詣が吸収されたからである、
という見方もあります。
(熊野比丘尼の活躍もあり、
伊勢神宮が盛り返してお伊勢参りが隆盛し出しためでもありますが。)
熊野詣を語る上では、この三十三所巡礼が外せないな…
思ったのはこの理由からです。
そして、熊野と伊勢とは端々で繋がりが濃いのも個人的には興味深いポイントです。
三十三所をきっかけに蘇りを果たした徳道上人、
花山院の活躍で蘇った三十三所、
やはり熊野は蘇りの土地なのかもしれません。
最後に余談をひとつ…。
「三十三」とは観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、
その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、
西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる
と言われています。
「33」とは西洋でも「天使や精霊、神の御加護があるときに表れる数字」とされています。
そして、中国では3本足の動物は幸福をもたらすことが多く、ヤタガラスのモデルもそこに因みます。
熊野には「3」の魔法がかけられているようにも思われますね。
*西国33所巡りがしてみたくなった方、
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