【熊野詣】⑪熊野本宮大社・大斎原
熊野本宮大社から500メートルほどのところに
「大斎原(おおゆのはら)」という場所があります。
ここは元々本宮大社があった場所で、
現在も神聖な場所として遺されています。
大斎原の入口には日本一と言われる大鳥居が!
ちょうど刈られる直前の稲穂の美しい田んぼの中に立っています。
(紀伊半島のお米の収穫時期は8月の中旬~下旬です)
行錯誤しましたが、
この大きさを伝えることは非常に難しく…!
↓の鳥居の足と人(174cm)との比較でご想像ください。
鳥居が立ったのは平成12年とあります。
ちょうどミレニアム!2000年ですね。
鳥居の大きさは高さ約34m、幅約42mだそうです。
ちなみに、伊勢の御幸道路の大鳥居は高さ22.7m・幅19mです。
この大鳥居の先、木々が生い茂っている場所が大祭原です。
熊野川・音無川・岩田川の合流する中洲にあたります。
熊野川は別名を尼連禅河、音無川は密河といい、
中洲は新島ともいったそうです。
江戸時代まで中洲への橋がかけられる事はなく
参詣者は音無川を草鞋や裾を濡らして徒渉して本宮の神域に入ったといいます。
これを「濡藁沓(ぬれわろうず)の入堂」といい、
参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、
冷たい水に身と心を清めてから本宮の神域に入ったそうです。
かつての本宮大社は、およそ1万1千坪の境内に
五棟十二社の社殿が立ち並び、幾棟もの摂末社もあり、
楼門がそびえ、神楽殿や能舞台、文庫、宝蔵、社務所、神馬舎などもあり、
現在の8倍もの規模をり、
さながら大河に浮かぶ小島のようであったといわれています。
明治に入り、急激な森林伐採が上流の十津川で大水害を引き起こしました。
明治22年8月、濁流となった熊野川が中洲にあった本宮大社の社殿をも呑み込み、
ほとんどの社殿が流出、境内372坪が決壊してしまいました。
水害を免れた上四社を現在の熊野本宮大社に遷座したのが翌翌年。
流出した中四社・下四社と境内摂末社は旧社地に2石祠を建てて祀りました。
現在大斎原にはその2つの石祠が立ちます。
東方(向かって右)の石祠に中四社・下四社を祀り、
西方(向かって左)の石祠に元境内摂末社を祀っています。
こちら(写真↑)が大斎原です。
写真右奥に石祠が立ちますが、
プライベート以外の写真撮影禁止の聖地とされています。
大斎原の森は明治時代末に伐採され、
現在は伐採後に植えられた杉が多くを占めているそうです。
こういった話から、南方熊楠の訴えた鎮守の森の保護を思い起こします…。
無用な森林伐採が大きな水害へとつながる…
現代にも共通の教訓ではないでしょうか?
鎮守の森の意味を再考すべきだと思います。
さて。
なぜここまで聖地として大事にされているかと言いますと、
この地に熊野の神々が降臨したと伝わりるからです。
最古の熊野縁起といわれる『熊野権現垂迹縁起』(長寛1~3年(1163~5)筆)によると、
「熊野権現は唐の天台山から飛行し、九州の彦山(ひこさん)に降臨した。
それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽(ゆずるは)山と巡り、
新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に遷り、
初めて結速玉家津御子と申した。
その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れ、
これを、熊野部千代定という猟師が発見して祀った。
これが熊野坐神社の三所権現である。」
と書かれているそうです。
熊野でも最も重要な場所―極楽浄土と目された熊野本宮大社、
皆が目指した聖地がここだったのですね。
現在はブームに乗って「パワースポット」などと呼ばれていますが、
鎌倉時代、浄土教系の新仏教「時衆」の開祖・一遍上人もこの本宮で宗教的に開眼したと言われているそうです。
「すごいパワーを感じる」とかは特に思わなかったのですが
歴史浪漫にドキドキさせられました。
この木々と川と田の恵みに広大な中洲、周囲を包む山々…
それだけでもう、ここに来た甲斐を感じてしまう東京っ子なのでした。